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元永定正の実像|自称“あほ派”の知的好奇心と作品にみる知的性
GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1
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元永定正
具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第29回目は具体初期を代表する作家のひとりで、後年は絵本作家としても活躍した元永定正をご紹介する。着色した水をビニールに入れて吊るす「水の彫刻」や、日本画の伝統的画法「たらしこみ」の応用、アクリルをエアブラシで飛散させるといった革新的な技法を展開した元永定正を美術史研究家の毛利伊知郎氏が語った。
元永定正の実像
毛利 伊知郎 (もうり・いちろう 三重県立美術館長)
2013年春、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で「具体展」(Gutai: Splendid Playground) が開催されたことは、記憶に新しい。この展覧会場で私たちが最初に眼にしたのは、同館の大きな吹き抜けに設置された元永定正の《作品( 水)》であった。
三重県内陸部の城下町伊賀に生まれた元永(1922~2011)は、30歳の頃に神戸に転居し様々な職業に就きながら具象の洋画を描いていた。しかし、芦屋市の市展で抽象絵画に出会ってから抽象表現に移り、吉原治良の知遇を得て1955年に具体美術協会に参加、以後1971年に退会するまで中心メンバーであった。
元永の本業は絵画であった。しかし、彼は立体、パフォーマンス、絵本、著述なども積極的に手がけた。ニューヨークにも展示された《作品(水)》は、絵画以外で元永の特質がとりわけ強く現れた作品といえるだろう。
《作品(水)》が初めて発表されたのは、1955年開催の「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」であった。吉原から「これまでになかったものを創れ」と鼓舞されて、まだ貧しかった元永が安価につくれる作品がないかと思案した末、ビニールに着色した水を入れてぶら下げたのがきっかけであった。
はたして《作品(水)》を見た吉原は、「世界で初めての水の彫刻やないか」と賞賛の言葉を元永にかけたという。以後、元永は機会ある事に《作品(水)》を発表してきた。体力が落ちて自ら制作できなくなった最晩年は、元永のプランに従って家族が制作を続けてきた。
私が初めて《作品(水)》を見たのは20年ほど前のことだった。以来この作品に接する度に、誕生以来長い歳月が流れているにもかかわらず、自然光線と着色された水の色と形、設置場所の空間構造を巧みに活かした配置が生む時代を越えた美しさに感じ入った。
ところで、元永は私設の絵画教室に通ったことはあるが、美術学校で体系的な教育を受けた経験がない。その元永の制作を支えていたのは自分自身を信じることであった。彼の言葉を借りれば「我流は一流」ということだ。
伊賀時代から元永は、絵画だけではなく、音楽、ダンス、文学などのサークルに参加し、神戸に出てからも多くの文化人と交友を結んでいた。1966年から翌年にかけてのニューヨーク滞在中にも、国内外の芸術家や批評家たちとの親交が生まれた。もって生まれた天性に加え、青年時代からの幅広い交友の中で元永のセンスと知性は磨きあげられていったにちがいない。
元永は、独特のユーモアとオプティミズム、豊かなサービス精神の持ち主であった。そんな元永は自身をひょうひょうと「あほ派」と呼ぶことがあった。この「あほ」に私たちは惑わされてはならない。それは、芸術理論や思想をことさら前面に出すことなく、自らの感性に従って制作することを流儀にしているという意味である。そして、元永が自らを「あほ派」と称するのは、人知れず努力する日々の営みと幅広い知的好奇心があってのことだった。実は、元永はきわめて知性的な作家であった。
1950年代後半から60年代半ばにかけて、元永は傾斜させたキャンバス上に絵具を流した「絵具流し」の作品によって、画家としての地位を不動のものにした。絵具はキャンバス上を重力に従って流れるから、画家の支配は及ばないと考えられがちだ。しかし、元永の場合それは誤りだ。元永の頭の中には、完成後のイメージが絵具を流すまでに既に出来上がっていた。絵具の性質やキャンバスの傾き具合などによって、イメージ通りに仕上がらないこともある。その場合、元永は絵具流しをやり直すことも珍しくなかったというのだ。一見偶然性に依存していると思われがちな絵具流しの作品にあっても、画家は全体をコントロールし、妥協を許さなかったのである。
絵具流しの作品において、色面がつくる「形」は重要な位置を占めている。元永の絵画は、色彩の絵画であると同時に形の絵画でもある。ニューヨーク滞在を機に、元永はエアスプレーによるユーモラスな画風へと変化した。それらユーモラスなファニーペインティングにも色とりどりの様々な形が登場する。その形を生み出すために、元永は常にメモ用紙を持ち歩いて、アイデアが浮かぶと即座にデッサンしていた。そうした日々の営みの上に、元永の作品は成立していたのである。
元永の多分野にわたる半世紀以上の活動は、1950年代半ばから60年代半ばにかけて吉原が主唱した具体の精神を、具体解散後も長きにわたって極めて高い次元で実践したものであった。
(月刊ギャラリー10月号2013年に掲載)
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