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アーティストであり教育者でもあった松田豐とは
GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1
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具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。最終回となる第35回目は、具体第2世代で最年少メンバーであった松田豐にスポットを当てる。日本のキネティックアートの草分け的存在である松田豐は、制作だけでなく絵画教室や学習塾といった活動を行うなど、教育者としての面も併せ持つアーティスト。そんな松田について、作家が活動の拠点としていた「ギャラリーdo」で松田昌子夫人に話を伺った。
「美術というより人間と違うかな 」松田昌子が語る、夫・松田豐の眼差し。
1967年に具体美術協会の会員となった第二世代のもっとも若いアーティスト松田豐はキネティックアートという新しい美術表現を日本で真っ先に行った。それだけでなく人間教育にも幅広く温かい眼差しを向けていた松田の活動は、その豊かな創造力に支えられ、美術をも超えた大きな広がりを見せた。その拠点となったアトリエが、堺市の南、関西空港のすぐ近くの大阪府泉南市にある。現在も昌子夫人によって作家が制作していた当時のままの姿で残されている。今回は、人間・松田豐の鼓動が今も聞こえるようなアトリエに、松田昌子夫人を訪ねた。
1963年、現代美術の作家たちが集まる大阪の小さなスペース「あの画廊」で松田豐は作品を発表していた。作品はすでにキネティックアートの表現を模索している時期だった。そこに「具体」の代表・吉原治良がやってきた。
松田昌子 「あの画廊」というのはグタイピナコテカ(「具体」の活動拠点)のちょうど近くにあったんですよ。白髪一雄先生とか、向井修二先生だったと思います。そこに吉原治良先生を連れてきてくださった。その時、松田の展覧会を見て「面白いな、今度一回作品を持っておいで」と言ってくれたんですね。当時は吉原先生のお宅に1ヶ月に1回、作品を持って行って、庭の塀のところに並べて見てもらっていたんですけど、そこでまた「面白い」と言われて、それからずっと持っていくようになったんですね。先生は「松田君の作品は孫が気に入っている」(笑)といわれたそうです。孫を抱いて作品をみていたんですね。
新しいキネティックアートの表現を、吉原治良の小さな孫が興味を示したというのは頷けるが、周りでまだ誰も手掛けていなかった「動くアート」を、「面白い」と評価した吉原治良の眼力によって、松田は自信をもってこの表現を開拓していった。この出会いにより、67年には具体美術協会の会員となる。浪速短期大学・美術科の同級生だった松田昌子夫人とは、その翌年の68年に結婚した。
松田昌子 昔から貧乏絵描きというか、主人もそんなに裕福な育ちではないので、お絵かき教室をしていました。結婚前は難波の月光荘というギャラリー・画材屋さんで主人が絵を教えていました。その時に自分が仕事で作品を創らないかんから、お絵かきを見てほしい、子供を頼むといわれました。それで私が代わりにお絵かきを教え始めたんです。私も主人と同じ短大をでていましたから。学生の時はお付き合いしてなかったのですが、そのお手伝いをしている間に、案外まめにするものですから、いつのまにか結婚ということになったのでしょう。だけど、主人は凄い人だと思いましたよ。創造力というか、次から次へと、何か面白いこと、人がフッフッと笑いたくなるようなものを作る。だから面白いなあと思って、尊敬しましたね。好きとかなんとかいうよりも楽しい人でした。創造力豊かな人と暮らしているというのはものすごく楽しかったですね。いつも一番に(作品を)見せてくれました。「どうっ」て聞きますから、私なりの意見をいっていましたが、「面白いな」と言うと凄く喜んでいましたね。
松田豐がちょうど具体に作品を出品し始めて、それで忙しくなる時期と結婚が重なっていた。そこで、昌子夫人の支援を得ながら、キネティックアートの作品を積極的に制作していくことができたのだろう。
松田昌子 「松田さんそんなに急いで作品創らなくても」と言われるくらいで、毎日作品を創っていましたね。動く作品です。一生懸命、吉原先生に見せに行く作品を創った。私が絵画教室を頼まれて、主人が作品を創って、先生のところに作品を持っていく。「面白いな」と言われたら、気持ちよく帰ってくるんです。もの凄く嬉しいんですね。制作時間は徹夜が多かったです。いつも手伝わされて、大変でした。帰ってきてご飯食べた後、作品に向かう。毎日でした。あの時分は「具体」は決まって展覧会がありましたから、周期的に出品しなくてはいけない。宿題みたいなものですね。だからほとんど徹夜です。動く作品は、部品も全部主人が自分で作っていましたから、大変だったと思います。
こうして、「具体」に発表していた時期にキネティックアートは確立されていった。しかし、67年からわずか5年後の72年に吉原治良の死によって、具体は解散となった。
松田昌子 自分の作品を見てもらう人、評価してもらう人がいなくなったと、がっかりしておりました。具体」の時代のあとも、松田豐はキネティックアートの作品を精力的に発表していった。その結果、多くのコンクールで受賞を果たし、時代の寵児となっていった。
そして84年には、松田豐は、文星道場・ギャラリーdoを大阪の難波に開設し、ここで、自らの作品発表や教え子の作品展示、「具体」の作家たちの教え子などの展覧会を幅広く行うと同時に、受験生の指導や学習塾も行っていた。アーティストだけでなく、人間の指導という教育者の活動も松田を理解するうえで重要な要素となる。
松田昌子 松田豐という人間は、明るく、まず温かい人でした。小さい時に体をこわして、足が悪かったんですが、絵が好きだということで、ご両親が絵を習いに行かせたりして、この道に入ったと思います。それで美術を通して人との交流が始まり、ギャラリーdoは、いつも賑やかなギャラリーでした。美術関係の人だけじゃなく、絵画教室も学習塾もやっていましたから、いろんなジャンルの人がきていました。学習塾の方は、落ちこぼれてどうもこうもない子を紹介で預かったこともありました。主人は人に教えたり、人を育てるのが上手だったのね。
松田豐は理数系の教科に強かったという。絵画教室だけじゃなく学習塾が発展したのもそうしたことが大きい。キネティックアートの制作にも、理数系の力が必要だ。それなくして、設計図を書き、配線を考え、部品を自ら作って、動くアートを作ることもできなかっただろう。松田の中で芸術と科学の力が融合していた。そしてそれがキネティックアートを誕生させ、芸術から教育と、世界を広げていった。現在のアトリエがある泉南市に、移ってからその姿はいっそうはっきりとしてくる。
松田昌子 ここへ来て18年くらいになります。主人の身体が悪くなり、制作をするのにアトリエを借りるためでした。遅くまで作品を創っていても、この辺は、当時まだあまり住宅がなく音を立てても大丈夫ということで決めました。ですけど、大阪で教えていた生徒も全部ついてきたので、ですからアトリエとして借りた倉庫の隣のこの家を、生徒達が寝泊りできるように内装し、借りたんです。生徒もたくさん預かっていましたからね、だからこの辺の、泉南地域でも市長さんまでおいでになったり、新聞に載ったりしました。京都からも神戸、奈良からも生徒が来ていました。吉原先生の教えと同じで、その人にしかないような個性を引き出すというのが上手だったと思います。勉強もそうですね。だから学力も伸びたと思います。どんな塾だと話題になって、NHKの「お母さんの教室」にも出演しました。美術面では、「芸大生も驚く」というタイトルで新聞半面の記事にもなりました。生徒さんは、みんなそれぞれ作品が違うんですよ。だからアッと驚くというような、東京で現代美術展の大賞をいただいたのでしょう。それも美術大学を出たという人じゃなくて、料理の先生、お花を教えている先生、普通の主婦、OLの方々が。だから記事になったんですね。
キネティックアートの制作のための時間も、学習塾でさまざまな生徒に教える時間も、松田豐にとっては、常に念頭に人間がいたという共通項で結ばれている。人がフッと笑うような面白さ、人がその個性を伸ばして何かを得るためのサゼスチョン、人間に対する優しさ温かさが美術や教育に形を変えて表れる。昌子夫人が「美術というより人間と違うかな」と、何気なく語った言葉が松田豐の眼差しの先にあったものだろう。創造力豊かにそれぞれの世界に関わり、美術には新しいキネティックアートが遺されていった。
(月刊ギャラリー3月号2014年に掲載)
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