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表現者・金山明にとっての重要地点である大阪・妙法寺|関係者インタビュー(後編)
GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1
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具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第28回目は具体メンバーで1965年に同グループを退会した金山明に注目。公私で生涯をともにしたアーティスト・田中敦子との関係性や、作家の人間性、制作活動に関して、金山にとって重要な活動拠点であった大阪・妙法寺を舞台に伊藤加奈子さんにお話を聞いた。
伊藤加奈子さんを訪ねて 金山明、田中敦子が拠点とした大阪・妙法寺共に歩んだアーティストの出発点・到達点(後編)
金山明と田中敦子の重要な活動拠点だった大阪の妙法寺には、美術作品とはまた別の、金山明の足跡が残されていた。案内をして頂いた妙法寺の伊藤加奈子さんがこれも金山先生が書いたものですと、お寺のあちこちの「書」を指して教えてくれる。石柱に刻まれた文字から、卒塔婆の文字、そして、お寺の記録を記した文章の文字まで、非常に多くの書跡が至るところに残されている。これは、実弟が妙法寺の前住職を務めていたため、墨で書くことが多いお寺の仕事を、書を極めていた金山明が手伝っていたことによる。その書の仕事は、伊藤加奈子さんが金山明から受け継いでいる。
伊藤加奈子 金山先生がお寺の離れにいた頃、近所の子たちと一緒に、私も絵を習っていました。ですけど金山先生に「才能ないな」と言われました(笑)。はっきりと言うんですね。絵はそうでしたが、お習字も習っていました。書の方は、寺の法事の時の文字や、塔婆など金山先生が書いてくれていました。父が住職の時からです。それをいつも隣で見ていたんですね。絵を描くのは嫌いだったのですが、字を書くのは好きでした。ですから寺の書の仕事は、今私が全部やっています。金山先生はきれいな字を書きましたね。きちっと先生に習っていたということです。ところが若い時に、書の先生にあなたの字は品がないわねと言われたそうです。それですごく発奮して勉強なさったと言っていました。もともと上手だったのに、それを言われたためにもっと勉強して、最後にその先生が「兜を脱ぎました」と書いてくれたそうです。それは書に限らず何事も徹底してやる人でした。英語とか、いろんなものを凄く熱心に勉強していて、いつも英会話のテキストをもっていて、今こういう勉強しているというんです。小さい頃に、夏休みの理科の自由課題の宿題をどうしょうかなと相談したら、これをしなさいと、天体望遠鏡もって来てくれて、これで太陽の黒点観測したらいいと教えてもらいました。それで望遠鏡を覗いていました。
伊藤加奈子さんは、離れの伯父夫妻である、金山明、田中敦子のその活動をもっとも身近に見てきた。その後、金山夫妻が奈良県の明日香村に引っ越した後も、特に金山明とは、親しい伯父さんと姪という関係にあった。また、金山明の実弟で前住職の伊藤さんの父親とも仲が良かった。
伊藤 まだ生きてらっしゃった時、ついこの前という感じがしますが、お盆の前になるとたくさんの塔婆を書かなくてはいけないので金山先生に泊りがけで手伝ってもらっていました。お寺で夜中まで書いていましたから、当然翌朝早くには寝ていました。すると住職の父が嬉しそうに、物差し持ってくるんですよ。寝ている先生をパチーンと叩いて逃げる、それで二人がお寺を走り回るんですよ。お爺ちゃん同士がいい歳をして走り回るんですよ。本当に面白い。金山先生は父をもの凄く可愛がっていたんです。仲が良くて常に一緒にいた感じでしたね。海外に出かける時も必ずうちに来て、よろしくねと言って行くんです。奈良の明日香村に行ってからも、大阪で絵を教えるとか、いろいろな用はあったと思いますが最低週に1回はうちに来ていました。大阪に来たら必ず寄って、ここからどこかに行くということになっていました。
「具体」の中では異質な理知的なイメージのあるアーティスト・金山明の非常にユーモラスで家庭的な一面を見る思いがする。金山明は、自らが作家であることよりも、田中敦子が絵を描くための環境づくりを第一に考えて行動していたと、前回伊藤さんが話してくれたが、それでも作家としての側面を伊藤さんは見ていた。
伊藤 金山先生はこだわりを持っていて、手帳をきっちり書いてという感じの方でしたね。あまり自分の活動はされずに、ほとんど田中先生のために、いろいろ自分の創作活動をセーブしていたようなことを聞きましたけど、でもたまに、こんなこと考えているという計画を聞かせてくれました。音楽の波形の作品を制作した時も、ああいう波形にしても、やっぱり名曲と言われるのはすごく綺麗だなと言っていました。天体の作品を創る時も、天体のことがやりたいから、凄い天文台の館長さんにあって来たとか、いつも、そういうようなことを言っていました。こういう面白いことができそうだと、常にアイデアがあったようですね。私の希望としては、あれだけ心血を注いでやってきた先生ですから、名前が残ってくれたらいいなあと思っています。金山先生は、父と小さい頃ああだったこうだったといろいろしゃべってくれましたが、内容も面白いし、頭もすべてスマートな方でしたね。天文学の分野で金山先生を慕ってくる人もいましたし、美術関係では弟子や協力者が大勢いたようです。人をひきつける魅力があるんですね。その人柄に惚れ込んで、若い時も近所の人たちがいろいろ協力しています。この間、古い映像見たんですけど、バイクに発煙筒をつけて、ただバーッと走るんですよ。それはうちのすぐ前の道なんですね。それだけの映像ですけど、それを高いところから撮るんですね。走る人と撮る人、みんな先生のいうことを聞いて、やってくれているんです。機械で作品を描くものもありましたが、あの機械も、うちの檀家だったある人から僕が作りましたと、言っていました。結構、周りの人を協力者として動かす力もあったのでしょうね。
先端的な表現を追求していた金山明は、田中敦子の制作環境も安定し、そろそろ自分も、これからどんどん作品を創っていこうと考え出したのは、晩年になってからだったと、伊藤さんは述懐する。新しい作品のアイデアを聞かされたり、近くからその生き方を見てきた伊藤さんは、事故によって中断されなければ、もっと多くの作品を残していったはずだと語る。
伊藤 2007年に豊田市美術館で行われた金山先生の展覧会は、先生が楽しみにしていた展覧会で、それが回顧展になってしまいとても残念でした。立派な展覧会をしてもらって、それを見にいった時、先生が生きていたらよかったなあと、つくづく思いました。
展覧会の2年前、2005年に金山夫妻が食事に出かけた車が交通事故を起こし、その年末に田中敦子が、翌年に金山明が亡くなった。豊田市美術館での展覧会の前年だった。最期まで病院や施設への手続きなど面倒を見てきたのも伊藤さんだった。金山明が三重県で最期を迎えたのは、豊田市美術館で展覧会が行われる時に行きやすいようにと、近くの三重県四日市市の施設に金山明が入れるように手配したからだった。しかし、交通事故で体力が衰えた金山は、肺がんを発症し、最期を迎えた。
金山明、田中敦子がアーティストとして活動する、大きな拠り所ともなっていた大阪の妙法寺は、家族、親族としての繋がりの中で、温かく二人の活動を見守ってきた。そして現在も、二人の位牌は、妙法寺の「報恩堂」に安置されている。
(月刊ギャラリー9月号2014年に掲載)
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