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新たな展望を見せる「イノクマ・ブルー」|猪熊克芳『推移-Transition』
2023.03.08
INTERVIEW
深く静かに沈みこむような、それでいて鮮やかなブルーで彩られたキャンバス。「イノクマ・ブルー」と称されるウルトラマリンブルーを用いた作品で知られる猪熊克芳の個展『推移-Transition』が、ホワイトストーンギャラリー銀座新館で開催される。今展では初期の1970年代の作品から、最新作までを展示。自身を代表するイノクマ・ブルーが生まれたきっかけや、心停止という経験をモチーフにして作られた最新作など、50年を超える画業を振り返りながら、現在の猪熊に迫る。
猪熊克芳『推移-Transition』ホワイトストーンギャラリー銀座新館
“心停止”という極限体験を作品に
展示風景より、猪熊克芳《cardiac arrest 9/s(心停止9秒)》2022, 121.0 × 182.0cm カンバス・アクリル・コーヒーパウダー
猪熊がこれまでどのように作品を描き出してきたか。その変化と進化を展覧会で追うという意味が込められた今展のタイトル『推移-Transition』には、もう1つ、新作《cardiac arrest 9/s(心停止9秒)》のテーマが隠されている。
あるとき猪熊は心臓が9秒停止するという、心停止を経験する。生と死の狭間を体験した作家は、自身が作り上げてきた画風を大きく変える機会を得た。
猪熊:それまでの私なら、画面の中に文字入れるなんてことは考えられなかった。それがね、不思議なことに全く抵抗が生まれなかった。「この作品には文字が必要なんだ」と強く思ったんだね。また、実際の心電図もあった方が良いなと自然と思えたから、新しいことに対する抵抗が無くなった。
具象画から抽象画、そして深い青へ
展示風景
横浜美術学校で美術を学んだ猪熊だが、画業に専念したのは40歳を超えてからだ。1996年に青木繁大賞を、翌々年に福島県総合美術展準大賞を立て続けに受賞した。1970〜80年代は自画像や具象画を多く制作し、落ち着いてはいるものの画面は様々な色で彩られていたが、青木繁大賞を受賞した《IN THE BLUE》では、現在の猪熊を語る上で欠かせない「イノクマ・ブルー」の原型が見てとれる。
ー抽象画の制作を始めた後に賞を受賞するなど、抽象画は現在の猪熊氏につながる大きな分岐点ですが、抽象画を描こうと思った経緯は?
猪熊:これだ、という確固としたきっかけはありませんが、ある時に深沢軍治という作家の方のフリードローイングを見たんですね。その時に、線描やフリードローイングを自分が幾らやっても理想とするところには到達できない、と自覚した。それならどうするかと考えた時に、「自分の世界を素直に表現しよう」と思ったのです。自分自身が内向的な性質というのもあって、抽象表現に惹かれていきました。1980年代は抽象表現を試み始めた時期です。その時はまだ何も分からなくて、ただただ色を置いたっていうだけでしたが。
展示風景
ー抽象表現を試みるにあたって、具象表現に対する考えはどのように変化しましたか?
猪熊:私の作品は見ての通り抽象表現ではありますが、空間に関しては一貫して具象的に捉えています。飾った時に作品が壁のようになるのが嫌なんですね。だから、抽象的ではあっても、画面では空間という具象の表現でありたいという想いが強くあります。
「イノクマブルー」ができるまで
展示風景
猪熊を代表する「イノクマ・ブルー」は、職人的な試みから生まれた。使用する絵の具に使い終わったコーヒーパウダーを混ぜることで繊細な絵肌に仕上がり、静謐なブルーが一層画面を引き締める。
ー制作はどのように進みますか?
猪熊:下地はピンク色で塗ります。下地が白だときついブルーになってしまう。ピンクの上にブルーをのせることで、落ち着いたブルーになるんです。
また、ブルーを塗る作業ではあえて筆跡を残します。しっかりと描き出すことで、繊細な絵肌になる。筆跡を残すことも大切ですが、この塗りの作業を何度も繰り返すことが大切です。色は一番最初に薄い色で塗った後に、徐々に強い色で塗る。こうすることで、画面をムラなく塗ることができるんです。
私は仕上げに画面の研ぎ出しやサンドペーパーでの削り出しを行うのですが、塗りの作業を何回も行っておけば、どこを研いでも同じマチエールを出すことができます。
ー猪熊氏といえば、やはり「イノクマ・ブルー」と呼ばれる深い青が特徴的です。作品に使用する色はどのように決めていますか?
猪熊:私はあまり多くの色を使いません。多くても10種類ほどかな。ほとんど自分で混ぜて作ります。例えば、グレーやセピアといった色は、白と黒とイエローを使う。近くにある色で必要な色が少しずつ変わるので、作品に合わせて色を微調整します。
また、下地に使用しているピンクはウルミナスオペラ、というカラーをベースに使用していますが、今のピンク色を作りあげるまでには、かなり時間がかかりました。
作家アトリエにて。絵の具の手前には作品の研ぎ出しに使う道具が並ぶ。
70歳を過ぎた猪熊の新たな挑戦
ー今展は初期の作品から最新作までが揃う、回顧展とも言える展覧会ですが、自身の画業を振り返って、どう感じていますか?
猪熊:過去を振り返ることで新たな発見がありました。
同じ畑ばかり耕していると作業がマンネリ化するように、制作が煮詰まっているように感じることもあります。また、70歳を越えると、健康的な不安もある。実際に心停止もしているし。でもだからこそ、心停止をテーマにした新たな作品を描くことができた。
そういった経験を積んだなかで、昔の作品と向き合うことが多くなった時に、「自分の引き出しが1つ増えるかもしれない」と感じたんですね。画面作りの中でもっと自由な表現を加えてもいいんじゃないか、という挑戦の気持ちが生まれつつあります。
作家アトリエにて。
コーヒーパウダーを混ぜた絵の具や仕上げの削り出し、注射器を使用した制作など、独自の制作方法を今も模索し続ける猪熊。光をも吸収するかのような深いブルーは寡黙に見えて、その内に煌びやかな色を魅せる。作品と同様に、一見すると寡言に見える猪熊だが、制作中に絵の具の上を猫が歩いてしまった失敗談や、妻をモデルにした制作のエピソードを笑顔で語ってくれた。そこには、過去を優しく振り返りつつも、アーティストとしての足跡を残したい、という強い意思が感じられる。
猪熊克芳『推移-Transition』はホワイトストーン銀座新館で3月10日から4月1まで開催。サイトではオンライン展示もご覧いただけます。