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誰の真似でもない絵 心の奥の層に届く表現|美術界の達人に聴く
評価され続けているアジアのアート
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『猪熊克芳: 大地の宇宙観』ホワイトストーンギャラリー銀座新館, 2019
国際的に評価されているアーティストやアジアのアートマーケットに関しての書籍『今、評価され続けているアジアのアート』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第21回目は、アーティストの猪熊克芳と、美術評論家の本江邦夫の対談をお届けする。
誰の真似でもない絵 心の奥の層に届く表現|美術界の達人に聴く
猪熊克芳
アーティスト
本江邦夫
多摩美術大学名誉教授 美術評論家
福島(郡山)を拠点に、個展を中心に制作発表を続けている画家・猪熊克芳。その画家は言う。「人の心に入るこむような作品、それもできるだけ心の奥の層に届くような作品」を。そのためには、「自分の主張を届けるのではなくて、見る人の記憶が作品と交感するような表現」という作画スピリットを心の支柱に果敢に探求し続けている。シンプルな空間構成、そして黒、ブルーの色面フォルムが重層しながら醸し出す神秘的で情感豊かな芸風。これこそ抽象画家、猪熊の真骨頂。個展(2019年、於:ホワイトストーン銀座)を機に本江氏に対談で画家の人となり芸術にフォ―カスしていただいた。
リストラ後に青木繁大賞を受賞、苦難の時代を支えたのは
本江 猪熊さんは、1996年に青木繁大賞展で大賞を受賞。以来、郡山を拠点に個展を中心とした発表を地道に続けていらっしゃいます。早速ですが画家になろうと思われたのは、いつ頃からなんですか。
猪熊 本気でそう思ったのは、大分遅くて40歳を過ぎてからですね。それまで勤めていた会社をリストラされたことがきっかけでした。
本江 ご苦労されたのですね。20代の頃は絵描きになりたいと思わなかったのですか。
猪熊 絵で生活できるなんて思いもしませんでした。そのくらいの常識はあったんです(笑)。でも東京藝大には行きたかったですね。うちは子供を私学に通わせるような家ではなかったので、働ながら予備校に通ったのですが、結局四浪しても駄目でした。
本江 リストラの後、どこかに再就職するつもりはなかった?
猪熊 そもそも、組織が苦手というのもあるのですが、何度職安に通っても40歳を過ぎた人間を「正社員」として雇用する会社はほとんどありませんでした。結局、絵を描くこと以外に自分にはできることがないと。
本江 とても厳しい状況だったんですね。
猪熊 そうですね。女房も働いてくれて支えてくれましたが、学校に通う子供が3人いましたので、経済的にとてもつらかったですね。絵画教室もやってみたのですが、自分には教える能力がないと思い知らされましたし。
本江 絵をやめようと思ったことはありましたか。
猪熊 青木繁大賞展で賞をもらうまでは、何度もありました。賞をいただいたのは一番ひどい状況の頃で、仕事がないときは昼間から飲んだくれたり…。荒れてましたね。受賞の知らせが来たのは、そんな時だったんです。
本江 よかったですね。
猪熊 そうですね。ちょうど蓄えも底をつきかけていた頃でしたので。
本江 画家としての状況も好転しましたか。
猪熊 ええ。新聞に大きく取り上げてもらえましたし。それまではどの画廊も相手にしてくれませんでしたが、話を聞いてくれるようになって、個展もやりやすくなりました。肩書がひとつ増えただけなんですけど、かなり変わりましたね。実は、東京の画廊に売り込みに行ったこともあるんですよ。ほとんど相手にされませんでしたけど…。
本江 具象を描こうと思ったことはないのですか。風景とか花とか。
猪熊 それはないですね。ものすごくハイレベルな具象作家がたくさんいますので、自分にはとても勝負できないと感じていました。それに、自分にしか描けないものを描きたかったというのもありますし。
本江 ご家族の支えあっての現在ですね。
猪熊 頭があがりませんし、感謝しています。それに、絵を買い続けてくださっているコレクターの方や、作品集とかホームページをつくってくれる支援者もいて、自分は本当に人に恵まれたなあと。
本江 あきらめずに、地道に続けてきた結果でしょうね。美大を出たって絵を続ける人はわずかですから、本当に立派だと思います。それに無名でも、心に響く作品であれば支えてくれる人がいる。素晴らしいことだと思いますね。
猪熊 ええ。本江先生とこうして対談させていただいているのも、支援者のおかげだと思います。本当に夢のようです。
ブルー、空間そして、かまどの煙
本江 最初から抽象なのですか。
猪熊 昔、肖像画を描いていたこともあるのですが、人物なんか描いていると、目尻の位置が1ミリずれただけで顔の表情が変わるじゃないですか。ある時、突然そういうのが嫌になっちゃって。
本江 それは対象から自由になりたかったということ?
猪熊 ええ。それで徐々に抽象的になっていったのです。しかし抽象画は売れにくい。ですから同時に、どうやったら作品が売れるのかも真剣に考えました。とにかく自分には絵しかありませんでしたから。
本江 ほう。それは興味深いですね。それで、どんな結論に至ったのですか。
猪熊 私が出した結論は、心に入りこむような作品、それもできるだけ心の奥の方にある層に届くような作品でないと、人は身銭を切って買ってくれないということです。
本江 人の心を動かすような作品でなければならないということですね。
猪熊 はい。そしてそのためには、自分の主張を届けるのではなくて、見る人の記憶が作品と交感するような表現でなくてはならない。そんな風にも考えました。
本江 なるほど。画面を作るうえで、もっとも重要視しているのはどういったことでしょうか。たとえば、工夫していることというのは。
猪熊 ひと言でいえば、エッジの処理です。フォルムとフォルム、色と色、それぞれの境目をどのように処理するか。その重要性を直感的に思って。ナイフで切ったような鋭いものにするか、それともロスコのようにぼやかすのか。色々考えました。
本江 確かに、猪熊さんの作品は「泣かせる絵」という感じがしますね。色も形も印象的で、癒し効果を感じます。ところで、マーク・ロスコの話が出ましたが、他にどんな作家が好きですか。
猪熊 レンブラントも好きですし、ルドンもいいと思います。
本江 ルドンのどんなところに惹かれますか。
猪熊 黒とセルリアンブルーが素晴らしいと思いますね。それに何と言いますか、やはり空間の感じだと思います。ナイーブですし、神秘的な空間ですよね。
本江 いくつか作品を拝見しましたが、ブルーを使ったものが多いですよね。
猪熊 一番、遠くまで空間を感じられる色は、青か黒か白だと思います。ルドンの黒、水墨画の余白の白も好きですが、元々青が好きなんでしょうね。空間の中の奥行きを感じられますので。
本江 なぜ、そこまで強く「空間」を意識するのだと思いますか、ご自身は。
猪熊 子どもの頃から壁が嫌いでした。視界を塞がれてしまうのがどうしても嫌だったんです。でも、逆に好きな空間もあって、それは近所の山の上から見た風景の中にあったものでした。
本江 面白そうなエピソードですね。それはどんな風景だったのですか。
猪熊 当時はかまどでご飯を炊いていた時代で、夕方になるとどの家からもけむりが上がっていて、それが風にたなびいていたんです。その景色がたまらなく好きだったのです。おそらく、それが影響しているのだと思いますね。そしてパステルの仕事、アクリルの仕事へと続いていくわけです。
本江 色数は割と少ないですよね。実際の制作はどのような感じなのですか?
猪熊 アクリルでする仕事とパステルの二つがあるのですが、アクリル作品の制作は、まずは下地の色面を作ることから始めます。
本江 でき上がった下地にさらに色を乗せていくわけですね。
猪熊 ええ。そして上に乗せた色を削ります。私の仕事では「削る」という行為がとても重要なんです。
本江 実際はどうやって削っているのですか。
猪熊 サンドペーパーを使います。そしてまた塗る。その繰り返しなんです。
本江 それが独特の発色を生むのですね。なるほど…。
猪熊 以前はキャンバスを支持体にしていたのですが、削ることでキャンバスが伸びて、作品の形が歪んでしまうので、いまではシナベニヤにジェッソを塗って支持体にしています。
本江 パステルの作品も削っているんですよね。
猪熊 ええ。紙を削って、ざらざらしたマチエールを作っています。
本江 本当だ。光にかざすとよくわかりますね。薄くなっている部分がある。表面をざらつかせることによって、どのような効果があるのでしょう?
猪熊 パステルの「乗り」が全然違ってきます。
本江 具体的には、どうやって描いているのですか。
猪熊 パステルを乳鉢で粉末にして、手指で描いています。
本江 筆を使わないわけですね。それは面白い…。
猪熊 誰の真似でもない技法で、誰の真似でもない絵を描きたかった。ただ、それだけなんです。
本江 アクリルは乾くまでに少し時間がかかるから、パステルとは完成までのプロセスが違うのでしょうね。
猪熊 そうですね。パステルは、連続して作業ができますが、ざらついた紙を指で触り続けるので、長くやっていると指がヒリヒリしてきたりして…(笑)。
本江 制作時間は長いほう?
猪熊 絵具を手にしている時間はそれほど長くないと思います。眺めている時間の方が長いかもしれませんね。私の場合は、夕方四時くらいに気分が乗ることが多い気がします。
本江 それはなぜなんでしょう。
猪熊 「6時になったら、酒を飲んでいい」という感覚が、体に染みついているんでしょうね。でも、自分で駄目出ししたりして、必ずしも、いい方向に進むとは限らないのですが…(笑)。
本江 現在生きておられる作家の中で、影響を受けた作家はいますか。
猪熊 レンブラントやロスコほどの存在はありませんが、最近知って刺激を受けたのが上前智祐さん。凄い作品だと思いました。
本江 確かに上前さんの作品は、具体美術協会の中でも独特ですよね。私も最近知ったのですが。
猪熊 激しい作風の作家が目立つ具体の中で、上前さんは「静」の存在だと思います。引くことを知っているピュアな作家、と言ってもいいような気がします。それに、素材の扱い方が素晴らしいんです。
本江 本当にその通りですね。今日、じっくりと実作品を見させていただいて、独特の発色、繊細なマチエールなど、猪熊さん独自の精神性の高い抽象表現を実感できましたし、実作品を見ることがいかに大事なのかを、改めて感じました。秋の個展を楽しみにしています。有難うございました。
猪熊 こちらこそ、いろいろな話をさせていただいて。とても貴重な時間でした。本当に有難うございました。
(2015年『月刊美術』10月号より転載)
書籍情報
書籍名:今、評価され続けているアジアのアート
発行:軽井沢ニューアートミュージアム
発売 : 実業之日本社
発売日 : 2019年8月6日
※本記事に掲載されている情報は発行当時のものです。現在の状況とは異なる場合があります。