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生きる、ニューヨークのアーティストとして ─作品・人・空間のハーモニーを巡って─

評価され続けているアジアのアート
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評価され続けているアジアのアート

国際的に評価されているアーティストやアジアのアートマーケットに関しての書籍『今、評価され続けているアジアのアート』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第23回目は、アーティストの桑山忠明と、建築家の隈 研吾の対談をお届けする。

生きる、ニューヨークのアーティストとして ─作品・人・空間のハーモニーを巡って|美術界の達人に聴く

桑山忠明
美術家 絵画・彫刻・インスタレーション

隈 研吾
建築家 東京大学教授

左:建築家 隈研吾、右:桑山忠明(1958年渡米、以来ニューヨークに滞在)

都市NYそして時代のアートシーン
パリではなく、何故ニューヨークなのか

隈 シンガポールのナショナルミュージアムで、現在、開かれているミニマルアートの展覧会や、再来月は台湾の個展だと聞いていますが、先生が出品なさる展覧会のために、忙しくアジアを訪問していらっしゃるこの時期に、日本でお会いする機会ができて嬉しいですね。先生とは初めてお会いしますね。

桑山 ニューヨークにズッといますからね。展覧会の時に帰ってくるくらいで。

隈 ニューヨークは何年からいらしたのですか。

桑山 1958年からです。

隈 もう60年以上ということになりますね。ところで、どんな理由で行くことになったのですか。

桑山 僕は学校が東京藝術大学の日本画科だったのですが、日本のシステムが嫌いだったんですね。例えば、日本画の世界だと、ヘッドがいて、一緒にグループとして行動するということになっていますね。これは日本画だけじゃなくて、日本の美術は全部グループですよ。芸術は個人的なものであって、創造的でなくてはいけないと思っていましたから、卒業後二年で、ニューヨークに行ったわけです。

隈 日本だと、最先端の連中も割と自由じゃないんですよね。

桑山 そうですね。

隈 世界にはいろいろ都市がありますが、当時はやはりニューヨークが目指すべきところだったのですか。

桑山 行くと決めた時にアメリカの領事館で面接があるんですよ。それをしないとまだ行けない時代でしたし、飛行機は飛んでいましたが、それは政治家が使うもので、われわれはボートなんです。

隈 まだそんな時代なんですか。ボートなんですか。

桑山 その面接時に言われたんですよ。どうしてニューヨークに行くんだと。パリに行った方がいいんじゃないかと。そういう時代なんですよ。アメリカは第二次世界大戦で勝った国、一番リッチになった国ですよ。僕は、アートはサポートする人がいないと進まないし、アメリカでもニューヨークでなければ嫌だと言いました。

隈 58年というとやっぱりパリなんですか。今振り返ってみると、アクションペインティングなどではニューヨークが中心だから、戦後はアメリカかなと思っていましたけど。

桑山 アメリカです、あの時期は。だけど領事館の人はそういうことを知らないじゃないですか。日本の同世代の美術を志していた多くの連中も、まだみんなヨーロッパでしたね。

隈 先見の明ですね。アメリカの情報があまりなかった頃なんですかね。

桑山 アクションペインティングがありますね、あれがちょうど終わる頃で、次のアートができるという時期です。ですから、ミニマリズムとか、少し後にポップアートがでてくる、変わり目のとこですね。僕がアメリカに着いた時は、アクションペインティングでした。初めて見て驚きました。

まずサイズがすごく大きい。ああいうのを見たことがなかった。凄いとは思ったんですが、われわれがすることじゃない、もう済んだことなんですよね。それが50年代の終わりから60年代の始まりで、ちょうどその時にアメリカに行ったんです。だから考えてみれば、一番いい時期に行ったことになりますね。

隈 私自身がニューヨークに行ったのは85年なんです。同じように日本建築がグループ的なところがあるので、息が詰まるような感じがしたので、ニューヨークに行ったんですね。85年というのもちょうど端境期なんです。ポストモダンがもう終わりだなという感じで、みんながこれから何をしようかと迷っている時期に行けたので、私は85年は凄く良かったと思うんですけど、先生の時もそうなんですね。

桑山 本当にいい時期だったと思いますよ。いろんな画廊も全部新しくできる。それから、当時は美術館と言えばMoMA、グッゲンハイム、それからメトロポリタンミュージアムで、そこの若いキュレーターでヘンリー・ゲルツァーラーとかMoMAのウイリアム・サイツ等、若い彼らがスタートした頃です。その連中は美術館が休みの月曜日に、一緒になってニュータレントを探していたんです。

僕は最初にレオ・キャステリのディレクターからそれを聞いて、彼が僕のところにも連れてくるという訳です。お前ジョークだろう、と言ったんですよその時。そしたら本当に連れて来て、それでピックアップされたという訳です。そういう良い時期に当てはまったというか、まだ次のジェネレーションがない時で、タイミングが良かったんですね。

隈 85年に私もニューヨークでなくては行きたくないと思いました(笑)。私の時はちょうどロックフェラーのACCで行きましたが、それまでは建築家ではだれもACCはなかったですね。私の前の年に、半年ずれているのがアーティストの川俣正、私より半年後にずれて岡崎乾二郎が行っていて、その辺の連中はわりと同じ意識で、アートと建築、空間と建築ということを考えているような感じで、ニューヨークに行って自分は本当にある種変わったと思いましたね。

桑山 アメリカに住むとかそういうことではなかったのですね。

隈 コロンビア大学には一応客員研究員という籍はもらっていたんですけど、学校は図書館を利用するのに必要なだけで。

桑山 僕たちも、留学生としてしか行けなかったんですね。

隈 どこの学校に決めたんですか。

桑山 よくニューヨークの状態は分からないし、いろんなアーティストのバックグラウンドを見てみると、だいたいみんな、アートスチューデントリーグだったので、そこに決めました。アプライすれば誰でも入学できるんです。

だけど、学校は毎日出なくてはいけないんですよ。出席のサインをしなくてはいけない、イミグレーションのために。だからサインだけして家に帰る。学校にいても無駄だと思って。

隈 一応、サインだけしに行くんですか(笑)。だけど、先ほどのキュレーターが見に来たという話は、そうした学校の交友があってのことではないんですか。

グリーンギャラリーとの機縁

桑山 友人の関係はありましたね。グリーンギャラリーご存知ですか。当時できたばかりの、僕は全然聞いたこともない画廊だったんですが、そこのオーナーに、自分の画廊を見てほしいと言われたんですよ。僕より三つか四つ歳上の青年のような人でしたね。そこに先ほどのキュレーターのヘンリー・ゲルツァーラーなど、いろいろな人が来ていました。

僕が見に行ったのは画廊のオープン企画のマーク・ディ・スヴェロの個展でした。行って見て、それから「グッド・バイ」と言って帰ったんですよ。その「グッド・バイ」を、画廊のオーナーは「ノー」という意味にとったんですよ。単に「さようなら」と言ったつもりだったのですが僕の英語が上手じゃないからでしょうね。そしたら、すぐ紹介者のレオ・キャステリのディレクターから連絡があって、すぐ「ノー」と言わないで欲しい、彼が展覧会をしたいと言っているんだからと。

隈 それで、展覧会はやることになったんですか。

桑山 1961年に個展をやりました。それ以来、ずっと一緒にやっていく画廊になりました。

隈 ニューヨークに行って、僅か二年で発表の機会を得るというのは幸運ですね。

桑山 そうですね。それも向こうが探してくれた、彼が来てほしいということですから。

隈 グリーンギャラリーで先生と前後してやってらっしゃる作家にはどんな作家がいましたか。

桑山 当時は、ジョージ・シーガルとかダン・フレーヴェン、ルーカス・サマラン、その後で、トム・ウェッセルマンとかポップアートの連中がでてきました。大部後のグループショーで草間彌生もやっています。

隈 グリーンギャラリーというのはちょっとハードルが高い画廊だったんでしょうね。そういう幸運があって、最初から絵が売れてずっとやってこられたわけですね。

桑山 売れたといっても100ドル、200ドル。

隈 それにしても自立してやってこられたというのが凄いですね。特にニューヨークの空気はそうですよね。自立して生きるということがアーティストとしての最低の条件ですからね。私もニューヨークで川俣正や岡崎乾二郎と話していたのはサバイバルということが多かったように感じます。

桑山 僕たちが60年代にしていた仕事というのは、現地のアメリカ人には理解されなかったですね。サポートしてくれたのは、だいたいスイスとドイツですね。

隈 そうなんですか。

桑山 僕たちの知っているアメリカ人の連中はみんなそうです。アメリカでは食えない。ミュージアムでも画廊でも、サポートしてくれるのは、ほとんどヨーロッパでした。僕の最初のミュージアムショーはアムステルダムのステードリックミュージアムの「カラー・オブ・シェイプ」という展覧会にアメリカ人として選ばれました。66年です。だけどあの頃は自分のショーにも行けないんです。お金もないし。ほとんど行ってない。

個展としてはドイツのホータワングミュージアムが最初の個展です。そういう展覧会によって、チャンスができましたが、ほとんどドイツですね。アメリカの当時の僕たちのよく知っている連中は全部、ドイツです。ドイツが作家のミュージアムを創り、買ってくれてサポートしてくれた。ミニマリズムはアメリカでは食えないし、買う人もいないんですよ。ニューヨークもそうです。最初は本当に売れなかった。60年代は。知名度のあったバーネット・ニューマンにしても売れないんですよ。

最初に画廊の人たちと、どういう値段で売るか話し合っていて、アイバン・カープが大きい作品を1500ドルと言ったらとんでもないと言われて、ロスコが1000ドルでも売れない。そういう時代だったんです。値段が付きだしたのはポップアート以後ですね。

全作品流失、災い転じて

隈 私にとっては、どういうメディア、材料に描くかというのは凄く大事なんですけど、先生が日本で日本画を学び、ニューヨークで制作を始めたという段階で、それはどのように変わられたんですか。

桑山 僕が知っている材料は日本画の材料だけでした。油彩なんか触ったことない。ニューヨークに行く時、日本画材の粉絵具は全部日本から持って行ったんです。だけど膠は向こうでは乾燥しすぎて駄目だったんです。ちょうど、その頃、アクリルのペインティングができたんですが、それを近所に住んでいたサム・フランシスと知り合いになって、彼が、こういう絵具使った方がやりいいんじゃないかと言うので、僕はその溶剤で粉絵具を溶いて自分で絵具を作りました。

隈 溶剤が変わったということは、ご自身にとって大きな転換になったんですか。

桑山 ですね。

隈 日本画を描いていて、現代美術に行った人、例えば白髪一雄は昔の日本画が展示されることがありますが、先生はどんな日本画を描いていたのか興味が湧きますね。

桑山 1959年9月に伊勢湾台風がありまして、名古屋でしたから全部流されて。無くなったんです。僕は過去はないんです。

隈 そうした時代の節目に消えてしまったというのは面白いですね。ニューヨークではサム・フランシスといろいろお話をしながら創っていったんですか。

桑山 いや、ただ友達としての交流です。私たちの住まいも彼が見つけてくれました。ロフトなんですけど、彼には少し小さすぎるけど、僕たちにちょうどいいんじゃないかと教えてくれたんですよ。そこに最初に住んで、76年に今のところに引っ越したんです。

隈 やっぱりニューヨークという場所が、先生を含む新しい作品が誕生してくる場のような感じがしますね。ある種、空間が乾いているという感じもありますね。

桑山 それと本当に自由なんですね。ニューヨークで最初の日本画のスタイルの作品は二年目でやめて、(図録の作品を指して)この作品が、今言うところのミニマリズムのはじまりじゃないですか。

隈 パッとスタイルを変えて、どんなリアクションだったんですか。

桑山 どうだったのかな。彫刻みたいに立体の要素も入っていますからね。

隈 先生の作品は、すごく建築的だと思います。建築の最終的なものは、何のマテリアルに、何の色を選ぶかということと、モノのエッジの納まりみたいなことですが、先生は本当に最終的に同じことを考えているなと思うんですよ。

私は建築は全体のシルエットで勝負する時代ではないと考えていて、本当はマテリアルとテクスチャーと、この角をどうするかというところで、結局、空気感が規定されると思っています。ですから先生の作品を観ていると共感を覚えます。

桑山 僕の作品はほとんどメタリックでやっています。

無機物といわれる金属の中にある、人間との会話

隈 下地のメタルは何ですか。

桑山 これはね、ベークライトなんです。

隈 ベークライトは何がいいんですか。

桑山 ベークライトは、反らないんです。一番固い材料ですね。もともとは、僕の家族の友人のベニヤ板を作る方が、ベニヤにベークライトを貼った特殊なベニヤを作っていた。それはピアノに使うんです。ですから全然反らないし、固い。その話をしている時にちょうど日本にいて、その材料を見たいという話になって、そこからですね。

隈 ピアノの技術なんですか、このベークライトというのは。

桑山 作品は、メタリックのスプレーにしてもらったのを使います。色は2色の繰り返しなんですよ、ピンクとイエロー。

隈 いろいろな色を感じますけど、2色だけなんですか。不思議ですね。

桑山 その2色を繰り返しにして、永遠に続くという、それを会場の一室に全部展示していくわけです。

隈 こういう作品を作る時は実際の空間に必ず置いてみてから、また違う色に変えるということはあるんですか。

桑山 メタリックは、アングル、距離で色が違うように見えますよね。だから、そこにあるということで、その前に人間がいれば、いろんな色に見えるんですよ。空間をもう感じるんですよ。

隈 なるほど。

桑山 変わった材料としては面白いですね。あとはアルミでもやります。それはまた強い感じですよね、光の反射が。ですから、表に出てくる感じですね。ベークライトの方はむしろ奥に静かに沈んでいるという感じですね。同じものでも、素材によってぜんぜん違う感じにできるんですね。

隈 ベークライトもアルミもメタリックの無機的な素材なのに、人間とぶつかると表情が変わるところが面白いですね。

桑山 こういう作品を壁に掛けるということが、もうすでに空間ですよね。僕は空間をすごく大切にしている。

隈 無機物、有機物の境はすごく曖昧で、実はいい加減ですね。無機物といわれる金属の中にある、人間との会話みたいなものが凄くて、それが建築の基本だと思っているんですけど、建築は石にしろ、金属にしろ、無機物でなく、人間が入ったとたんに違うものになるというところがすごくいい、面白いなと。

でも、そこだけをテーマにして建築を創っている人は実はあまりいなくて、やっぱり、みんなシルエットの時代がずっと長く続いていて、どう格好よくするかやっていますが、シルエットの建築はわりとすぐ飽きちゃうんですよね。

桑山 ミニマリズムと通じるところがあるというか、僕の作品と共通点があって興味深い話ですね。今度の台湾の画廊での個展も、先生が設計なさったスペースですから、楽しみにしているんです。

隈 ありがとうございます。もっといろいろお話したいところですが、お時間があまりないというのは残念ですが、また、機会がありましたらお会いしたいですね。

桑山 ニューヨークで、是非、お会いしたいですね。

(2019年3月21日収録)

書籍情報
書籍名:今、評価され続けているアジアのアート
発行:軽井沢ニューアートミュージアム
発売 : ‎ 実業之日本社
発売日 ‏ : ‎ 2019年8月6日

※本記事に掲載されている情報は発行当時のものです。現在の状況とは異なる場合があります。

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