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アーティスト・矢柳剛へインタビュー|個展『ホップ ステップ ジャンプ』

2022.06.27
銀座

明快なエロティシズムとユーモアで世界に評価されてきた矢柳剛の個展『ホップ ステップ ジャンプ』が、ホワイトストーンギャラリー銀座本館で開催されている。国際的な場で幾度となく作品を発表し、国内外の数多くの美術館に作品が所蔵され、世界的に活躍するファッション・デザイナーとのコラボレーションなど、多方面で活躍してきたアーティスト・矢柳の活動に迫るインタビューを前半・後半と2回に分けてお届け。前半では矢柳のアーティスト人生の原点や、多方面での活動に関して、矢柳自身の言葉でお伝えする。

矢柳剛がアーティストを志したきっかけ

矢柳剛個展『ホップ ステップ ジャンプ』展示風景

ー「もう昔々の話になるよね」と自らのアーティスト人生のスタートを振り返る、矢柳。北海道で牧場(競走馬)を営む実家を継ぐべく、東京の大学に通っていた時に出会った巨匠の作品が、矢柳剛をアーティストの道に歩ませた。

矢柳:生まれは北海道の十勝です。そこから五反田にある星薬科大学へ入学しました。3年生の時のある日曜日に美術館に行ったわけですよ。日本で初めてゴッホ(フィンセント・ファン・ゴッホ、1853年 - 1890年)の大展覧会が開催されていて、それを見てびっくりしました。アートというのはこんなに内面的なエスプリをえぐり出すものかと。ゴッホのスピリチュアルというか精神性が糸杉のように渦巻いて、空間を吹っ飛ばしていくような作品だったので、アートというのはすごいなと衝撃を受けました。

当時僕は物理学を専攻していたのですが、自分が今やっている勉強は俺には向かないなという思いもあって、アートの世界で一生生きようと決めました。

当時の僕は若くて、青春の病気というか、情熱があったから、「よし、もう大学は辞めだ」と決意して、絵の世界へ入ったわけです。初めは独学ですから、自分がゴッホになったみたいな気持ちで、飯能の名栗川へキャンバスを背負って、太陽が上がってくるのを夜明けから待って、絵を描いたりしました。それが僕の青春です。

矢柳剛《夢蛙. 春が飛んできた!》2022

ーあと1年で大学を卒業、卒業後は実家を継ぐという条件での上京だったため、アーティストになることに父親は猛反対したという。しかし「親不孝」だと言われても、矢柳はアートの道に進むことを選んだ。

矢柳:アートというのは、人生をえぐり取っていくんですね。表現は見えない世界です。その隠れた部分をクリエイティブにするのがおもしろいですよね。

アーティスト人生の始まり、単身ブラジルに渡る

展示風景より、矢柳剛による1960年代の初期の作品郡

矢柳:二十歳になって、まずブラジルへ行くわけです。「ぶらじる丸」という移民船に横浜から乗り、パナマ運河を通って、ブラジルのサンパウロへ着く船なんですが、49日間かかりました。

当時現代アートの勉強をする人や新しい絵を描く人は、河原温さんをはじめとして多くがニューヨークへ行っていました。もう1つは伝統的なパリで、菅井汲さん、田渕安一さん、堂本尚郎さんなど、日本人の若い人達が行っていましたね。

その中で僕がブラジルを選んだのは、親戚がブラジルに渡っていたということもありますが、絵に全く関係ない地球の裏側で、地球というのはどのような関係で動いているか、に興味があったんです。当時は独学で考古学も勉強していて、ギリシャ文明や、インカ、マヤなど、古代文明に惹かれていたこともあって、新大陸のブラジルを選んで行ったわけです。

そして、ブラジルへ行ってまず驚いたのが玄関口のアマゾン川の河口ですよ。もう川じゃなく、海だった(笑)これアマゾン川と言うけど、川じゃなく海じゃないの?と思って。それで、水の色も青い色をしているかというと違いました。真っ黄色の水です。自然への畏敬の念と、自然は非常に激しい面を持っているけれども、そこでまず自然の広さと偉大さにびっくりしたわけですよ。

ー当時見た景色が今も眼前に広がっているようにいきいきと話す矢柳。ブラジルでは3年に渡り濃密な時間を過ごし、その後、アフリカ、シンガポール、東南アジア、フィリピン、香港を廻り、東京に帰国。5年ほど体調を崩した後に、今度はヨーロッパに行く決意をする。

矢柳:新大陸は見たけれど、今度はヨーロッパを見ようと、パリへ行くことに決めました。横浜港からバイカル号(船)でハバロフスクに渡り、そこからシベリア鉄道でモスクワからポーランド、ウクライナ、東ベルリンを通ってパリに着き、パリで3年間勉強をすることになりました。

西洋と日本のアートの違い

展示風景より、矢柳剛による2017年以降の作品郡

ーブラジルに3年、フランス・パリに3年、その間にアフリカや東南アジアなど、多くの国を周り、さらに第11回サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル、1957)、第2回フレッヒェン国際版画ビエンナーレ(西ドイツ、1972)などを含む、国際的な場で幾度となく作品を発表してきた矢柳に、海外で得たことを尋ねてみた。

矢柳:西洋のアートはね、空間を埋め尽くしているんですよ。粘着性がある。油絵の具を使っていますから、そういう面が体質的にあるわけです。

自分自身に当てはめて考えてみると、これは肉食文化とほうれん草(草食)文化だなと思ったのです。3年間勉強している間に、日本人はほうれん草だなと、植物人間だなと思いましたよ。そこで「これは欧米のまねをしたってだめだ」と思いました。

自分のアイデンティティーを明快にしたい。上手い下手は関係ない。アートというのは根源性をきちんと持って、セオリーもきちっと掌握して、そして人生を歩まなければいけないと、勉強をしました。

それに、各国それぞれの文化面、その国の持っている歴史、移行していく現代に対する考え方といったものを通して、僕は日本人だから、やはり日本の伝統を徹底的に学ばないとだめだと思ったわけです。自国の伝統を勉強しないと革新性につながっていかないなと。そこから徹底的に日本の古典を勉強しました。

展示風景より、矢柳剛《発芽》1980

ーパリでの3年間の勉強、そして西洋のアートや文化の違いを実感したことをきっかけに、漫画のルーツと呼ばれる鳥獣戯画をはじめとして、矢柳は“日本”という自国の文化に目を向けるようになる。

矢柳:今漫画ブームになっているけれども、日本の鳥獣戯画なんか、いち早く日本人が描いているわけですよ。すばらしいですよね。それからずっと時代が下って、若冲、光琳、北斎と、多様化を遂げました。中でも北斎という人物はピカソ以上だと僕は思っています。

文学もすごいですね。源氏物語や古事記など、自分なりに徹底的に勉強して、自身の絵にも描いてきました。そういう中で外国で展覧会をやると、「あなたの絵はユーモアがあっておもしろい。このユーモアはどこから出てきたのだ?」なんて、中国人に聞かれました。その若い人は私にばんばん質問する。その中で「ユーモアって何だ?」と言うから、日本の伝統的な文化を説明すると、「わかった」って言うわけですよ。あなたの国から見ると、やはりくすりと笑わせるところがあるなとか。

そういうふうにアートというのは、言語を超えて、どんどん国境を突破して、地球上をもがいていくわけです。外国ではそんな機会を得られましたね。

ホワイトストーン・ギャラリー台北忠孝館での「GO YAYANAGI: POP UKI」展示風景

ー日本で育まれた文化に深い興味を抱くことになった矢柳は、1960年代以降「ポップ・ウキ」という手法を絵画や彫刻作品に用いるようになる。「ポップ・ウキ」とは「ポップ・アート」と「浮世絵」の融合を意味し、くっきりとした清廉な線描と明るい色彩を持ち味とする矢柳作品の特徴を捉えている。

誰もが親しみやすい、ロードアートとしてのファッション

コートに大胆に絵付けした作品《地球、空気、環境》2000-2022を配した展示フロア

ーアーティストとしての活動がメインの矢柳であるが、ファッションとのコラボレーションや壁画、ステンドグラスのデザインなど、その活動は多方面にわたる。特にファッションとの関連が深く、世界的に著名なファッション・デザイナーであるコシノジュンコ氏とコラボレーション展を数回開いたこともある。ファッションとの関わりは、矢柳が「ロードアート」と呼ぶ、誰でも楽しめる親しみやすいアート活動をしたいという想いから生まれている。

矢柳:米国人のノーマン・H・トールマンさんという、僕の絵のコレクションをしている方が「矢柳さんの絵、ファッションとコラボしたらすごくおもしろい」と言ってくれて、銀座にお店を構えていた芦田淳さんを紹介してくれました。芦田淳さんは日本で有名なファッション・デザイナーで、芦田淳さんとドッキングして、膨大なファッションを作り上げました。芦田さんがパリコレをやった時も大反響だった。パリで催され、日本の女優が着たことで、すぐに広がっていきました。

ロードアートというコンセプトで僕がやっていたものが、ファッションの中で、知らないうちにコラボレーションしていたという感じでしたね。だけど、日本はどちらかといったら保守的で古いですから、型破りな方向でファッションとコラボレーションしたアーティストは当時誰もいなかったし、全然相手にされなかった。

展示風景より、矢柳剛作品をモチーフにしたグッズ

それに、僕はグループで表現するのはあまり好きなほうじゃないので、70年くらいずっと一匹狼。もうそういうのから外れよう外れようとして自由に表現してきた。だから、よく批評家に言われましたよ。「矢柳さん、遠回りし過ぎている」と(笑)。「もっとメディアもわかるようにしたらよいのではないか」と言われたこともありましたが、僕はそこまでサービスする必要はないと思っています。アートの世界は自由に表現していくのが大事なので。その方針で一徹に現在まできています。

コロナ禍の想い、作品への影響

御齢89歳の矢柳剛。現在も毎日絵に向かい制作を続ける

ー大学3年生でアーティストを志してから70年以上活動している矢柳。2019年から続くコロナウイルスによる生活の変化や、ウクライナでの戦争など、世界的危機について感じたことを尋ねてみた。

矢柳:3年間近く閉じこもったわけですね。世界に生まれたコロナという細菌に関して、自分なりに情報を引いたり、見たり、世界中にいるアーティストや友だちから電話をもらって、情報をいただいたりしています。

パリにいる松谷武判さんや台北にいるアーティストなど、コロナが大変だし、ウクライナが戦争になって、今大変な状態になっているけど、これで負けて、絵を描かなかったらアーティストはだめなのだから、頑張って絵を描いていこうということを絶えず皆さんと話していますよ。

それから、この前亡くなりましたが、クリスト(クリスト・ヴラディミロフ・ジャヴァチェフ《ブルガリア出身、1935~2020》)も必ず手紙をよこしてきていたんです。彼も絶えず「コロナ禍なのだけど、とにかく自分は負けないで、今度パリのエッフェル塔をテントで包む」と言っていた。「そのあとは、今度アラビアの砂漠に3000本のドラム缶を敷き詰める」と、そういうふうに手紙に書いてくるんですよ。

同じ様にアーティストたちは、未来はこんな仕事にジャンプしていこう、前へ行こうって頑張っていますよ。僕もそういう意味で同じ気持ちです。だから、絶対に閉鎖的になっちゃいけないと思うね。制度の上では規制されて旅行できなくなっているけれども、コロナ禍だからこそ、本当に自分を見つめて、サラリーマンならサラリーマンとして自分の人生をどういう風に豊かにして切り抜けていくか、それで、コロナが終わったあとはこういうようなハッピーな仕事をしたい、前へステップしていきたいと、そういうことを考える一つの機会だと捉えればよいと思う。

展示風景より、矢柳剛による2019~2022年にかけての作品郡

ーコロナ禍や戦争による影響はアーティストにも多大な影響を及ぼす。外的要因をすぐに作品に反映させるアーティストがいる一方で、矢柳は世界で起こっている事柄が自身の作品に現れるのを静かに待つ。

矢柳:コロナで亡くなった人がいる。ウクライナで戦争をやっている。そういうことをすぐ絵に表現しようとか、そういうことは、すぐにはしません。例えば、日本に原爆が落とされましたよね。原爆のあの状況をすぐにリアルで表現はしません。

それを考えながら、そういうものが出てくる可能性は十分あります。絶えず頭の中にはありますよ。どこでそういうものを表現したらよいかということは、頭の中に絶えずあります。東日本大地震のことも絶えず頭にあって、実際はまだ表現していない。デッサンは既にたくさんしています。そういうものがいつ出てくるか、これは自分の現在位置と照らし合わせながら表現されていくのだと思います。

矢柳剛個展『ホップ ステップ ジャンプ』展示風景

大学生時代に巨匠の作品に出会ってから、「アートの世界で一生生きよう」と決めた当時の想い通り、70年以上もの人生をアートとともに歩んできた矢柳剛。次回は自身の集大成とも言える個展『ホップ ステップ ジャンプ』にかける想いや、矢柳が制作において重要視している事柄を解き明かす。

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