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具体中心人物・吉原治良の子息にインタビュー|子供から見た父・吉原治良とは
GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1
03/35
「具体人 in Karuizawa」軽井沢ニューアートミュージアム
具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第3回目は具体の絶対的指導者であった吉原治良について、息子である吉原眞一郎氏にインタビューした。具体の発足時から協会の顧問を務め、外部とのやり取りに関する英語翻訳なども行っていた吉原眞一郎氏。吉原製油の社員として、協会の顧問として、そして息子として見たきた立場から、吉原のアートへの想いを語る。
厳父の思い出: 吉原治良・長男、吉原眞一郎氏に聞く
吉原治良が、晩年の1968年11月から過ごした自宅・アトリエが芦屋市にある。そこには吉原治良の父である吉原定次郎の胸像も玄関に設置され、吉原家の家としてどっしりとした風格を漂わせている。現在は、吉原治良の長男・吉原眞一郎氏がその家を守っている。
吉原眞一郎氏は、吉原治良の長男で、具体美術協会の発足時から顧問として、父親の活動を支えてきた。今回、芦屋市の自宅を訪ね、父・吉原治良の人となりを聞くことができた。
昭和6年(1931年)8月生まれの吉原眞一郎氏は、吉原治良が26歳の時に生まれた。それは吉原治良が初個展を行い、また関西学院高等商業学部を卒業した年1928年から3年後にあたる。画家への道を目指すとともに、家業である吉原製油の跡継ぎとしての役割も担いつつ、力強く歩み出した時期にあたる。
その長男の眞一郎氏を訪ねると、応接室に何気なく置いてあった素晴らしい蝶のコレクションが目についた。これは眞一郎氏のコレクションで、父・吉原治良から教えてもらったという昆虫採集からスタートしている。
吉原眞一郎 私は尋常小学校に入り、国民小学校を卒業しています。夏休みの宿題に昆虫採集をしました。父親が昆虫採集に興味も持っておりましてね。その頃、芦屋市はまだ発展途上で、山の方が未開発の状態で自然が多く残っておりました。そういうところに連れて行ってもらって、ピクニックにいく気分で昆虫採集をしました。蝶とかトンボ、カブトムシとか、それからハンミョウと申しまして、小さいけれども物凄く綺麗なのがいるんです。だけどこれは毒虫だから触ってはいけないといういようなことも、父が教えてくれました。
この昆虫採集も、吉原治良が特に打ち込んだ唯一の趣味ということではなく、好奇心が旺盛で幅広い趣味があったようだ。鉄道模型や海外から輸入されたカメラのライカなど当時の贅沢品も楽しんでいたという。またガソリンエンジン搭載の模型飛行機も作っている。大きく見れば、写真を撮る、コレクションを作る、模型を作るということは、ある世界を創造するということで、創作活動と繋がっている。それが美術という狭い表現だけでなく、趣味の世界でも見せる幅広い展開は、具体美術の在り方を彷彿とさせるような気がする。
さて、本論の美術に関わる記憶を訪ねると…。
吉原眞一郎 まだ幼い頃、夕食が終ると父が「好きな絵を描き!」と言って、アトリエから画用紙やクレヨン、クレパス、三角定規や分度器、コンパス等を出してきてくれるんです。そこで私と弟の通雄(後の具体美術の創立メンバーの一人となる)の二人で母屋の日本間の丸テーブルの上で描きました。最初は好奇心の塊で、コンパスのどこに鉛筆を差して使うのか聞いたりしてました。本人も一緒に何かを描いているわけですね。私たちの絵を見て「これおもろいで、どんどん描き」といってくれました。
その後の昭和15 年にできました前の家のアトリエの時は、よく後ろから父が作品を描いているところを見ていました。そうしますと「眞一郎どない思う」、「通雄どう思うか」と聞かれるんですね。その時に率直な子供らしい意見を言わないととんでもないお叱りを受けるわけです。屈託なく子供だったら子供らしく言えということですね。ちょっとでも不自然なことをしたら、いっぺんに機嫌が悪くなるんです。
こんなこともありました。芦屋は戦後、進駐軍の接収家屋がたくさんあって、その子供たちがたくさん遊びにくるわけです。それで自然に親とも交流ができるわけです。私は大学に入った頃だったと思いますが、英会話ブームで進駐軍の兵隊さんと英語でしゃべったりしていました。そこでその時、ポートレートで肖像画を描いてもらえないかと依頼されたんです。それで一番いい制服をビニールの袋に大事に持って帰って、そしてそれをアトリエに吊り下げて、写真をみながら絵を描くわけです。父親は本人を知りませんから写真のイメージ通りに描くわけですね。だけど顔のシワがもっとあるんですね実際は。その時も「眞一郎お前どう思う、違うか」と聞くんです。その時にもやっぱり率直な意見をさっと言わないと機嫌が悪い。「いい加減な作った意見しか言えんのか、それは子供らしくない、よくない」ということを教えてくれましたね。
眞一郎氏に、父・吉原治良はどんな父親だったのかと聞くと、一言「厳父」と言う言葉が帰ってくる。
吉原眞一郎 非常に厳父でした。それが戦後になりましたら、父が変わりましたね。「父の座、父の権威があまりに無くなった、ものが言えんようになった」と何かそういうふうなことを言っていたのを覚えています。私はそれが非常に淋しい感じがしましてね。私にとっては、私が今あるのは厳父の教えに負うところが多いから「今までのお父ちゃんでいてください」と言ったことがありますね。
1954 年、具体美術が設立されると、眞一郎氏も顧問として吉原治良を支えた。
吉原眞一郎 発足当時から私は顧問の一人として父に付きました。私は何の顧問かというと父のイングリッシュ・トランスレーターだったんですね。例えばタピエに紹介されたアメリカの作家アラン・カプローに手紙を書くのに、会社(吉原製油)の宣伝課の吉田稔郎(1928―97)という具体のメンバーでもある彼が父の指図で原稿を書き、それを私が訳しました。それも通り一遍のありきたりの表現ではなくて、芦屋の進駐軍と会話をしていた時の「Come come everybody」というような、くだけた英語で書くわけです。それを父に見せたら、眞一郎の英語は全然間違ってないなあ、と言って誉めてくれました。だけどご機嫌悪いときは、お前の日本語は日本語になっていないとか、細かく注意を受けるんです。はじめそれで萎縮するんですけど、しかし色々教えて貰っていることが分かってありがたい気持ちになりました。その時はまだ若かったですから。
吉原治良の具体の創立メンバーに対しての姿勢に、眞一郎氏は厳父としての厳しさを、同じように見ていた。
吉原眞一郎 お弟子さんたちが、例えば嶋本昭三(1928―2012)さんとか、大作を作って車を引いて持ってくるんですけど「アカン」と一蹴されたら、そうですかと、そのまま引きさがって帰っていきました。なんで「アカン」のかということも言わないんです。NHKのラジオ「朝の訪問」のインタビューで言っていましたが、「具体丸」という潜水母艦に潜水夫、具体のメンバーが乗っている。その人たちが深海に潜り込んで、いかに自分のものを発見するか、何を持って上がってくるか、それを吉原治良は船長として楽しみにしているんだと。ただ漠然と身に付くのではなく、自分から積極的に自分の見つけたものを持って上がってこいということですね。その時に「人の真似はしたらいかん、自分は自分であれ、自分で見つけろ」と言っているんですね。
父・吉原治良は具体美術の代表であると同時に、吉原製油の社長であった。眞一郎氏は本職は吉原製油の社員で、具体美術の顧問には、その社命として就いていた。結果的に芸術に打ち込む姿と、経営を行うふたつの側面を見てきたことになる。
吉原眞一郎 言わば二足の草鞋となりますね。まあ、こんなことは非常に珍しいことですね。株式会社ですから、株主総会でも株主さんの質問を受けてきちんとやっておりました。他の役員たちからは今日の社長のコメントは、非常に良かったというようなお褒めの言葉を聞いたこともあります。会社では絵の関係だけじゃなくて、神戸工場が出来たときは、その工場のレイアウトに父は関与していましたし、製品のデザインも、手掛けていました。アーティストとしての活動も、社長としての仕事も、もちろんしっかりとこなしていたわけですから、これは簡単にできることではありません。
自分が生まれ育った環境というものを、父は語ってくれました。最終学歴も関西学院の商業学部で、商業の勉強ということなんですが、学校で過ごした年月というのは絵ばかり描いていたということか、学校の同じクラスの前の席に座っていたのが、後に朝日会館の館長を務めた人で、その頭の似顔絵ばかり描いていたと言っていましたね。こうした内容をウイットに富んだ楽しい話にして聞かせてくれました。絵に打ち込んでいたことは確かですが、社長業をおろそかにしていたことはありませんでした。
取材で話をうかがった家は1968年から住んでいる家だ。吉原治良にとっては晩年にできたアトリエということになる。応接室の上の2階がアトリエだった。ここでは、吉原治良の代表的な作品となった「円」を描いていた。
吉原眞一郎 この2階のアトリエの頃は私は制作中にほとんど部屋に入ったことはありません。アトリエの掃除も本人と母親がしましてね。母親以外にはさせなかったですね。「円」の習作の時はアトリエで好きなように描いていて、本番にかかる時、大作を制作する時はたいていアトリエの床に置いて、緻密に円を制作するわけです。 父は「円」を描いたのは、自分がこの世で生きて、その生き甲斐、自分自身をキャンバスにぶつけたもの、それが「円」であるということを言っていました。人がこれを「円」と見ようと、書と見られようと、円相と見られようと、まったく自由であると、法則化しませんでした。しかし、父は円相であるという風な決めつけのコメントはしないでくれと、はっきり言っていました。
1972 年1月18 日の朝、海外展の打ち合せの電話が、オランダ大使館から入って、電話を受けた吉原治良は言葉がしゃべりにくい状態になって電話を変わってもらったという。その後意識が途絶えていった。
吉原眞一郎 まだまだこれから世界にはばたいてもらいたい父でしたから非常にショックでした。これからどのような方針で活動していくかとインタビューを受けた時「今までの具体というものには固執せずに、あらゆるジャンルと幅広く仲良くして発展していきたい」ということを父親が言っていました、今、生きていたら百何歳ですけど、やっぱりそういう幅広い文化活動を続けていることだと、私は夢に見ます。
日本にかつて西欧を牽引するような美術の動きがあったことに驚く若者も多い。1905年生まれの吉原治良がその生涯でどんな活動を行ったのか、これから深く検証していくことが大切だろう。今回の吉原眞一郎氏の話の詳細まで伝えることはできなかったが、美術の活動だけでない人間・吉原治良の姿が少しはイメージできただろうか。
(月刊ギャラリー9月号2013年に掲載)
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