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具体指導者の吉原治良を最もよく知る人物|吉原通雄の作品の歩み
19/35-GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1
具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第19回目は、具体美術協会の指導者であった吉原治良の息子で、アーティストの吉原通雄にスポットライトを当てる。学生時代という早い時期から具体に参加した吉原通雄の作品の歩み、そして父・吉原治良との関係を、その制作方法とともに振り返る。
描くということよりも素材と方法が重視される作家・吉原通雄
河﨑晃一(甲南女子大学文学部メディア表現学科教授)
吉原通雄(1933―1996)は画家の家庭に育った。その画家とは、言うまでもなく吉原治良である。幼い頃から父のアトリエで遊び、物心ついたころからは、お描きがはじまり、学生時代には展覧会で賞を取るほどであった。まさにその環境が吉原通雄を育んだと言ってよいだろう。父の母校でもある関西学院大学に進学、大学生時代も絵画部弦月会に所属した。3年生のときには,当時の関西の美術家はじめとする各ジャンルを結集した第1回ゲンビ展に出品している。若くして関西における戦後美術の最前線の展覧会に出品するチャンスを得たのも、少なからず父吉原治良の影響、アドバイスがあったと言って良いだろう。そして、1954年の具体美術協会(以下、具体)結成のときは,大学4年生ながら名を連ねている。このことは、吉原通雄が吉原の次男であることを差し引いても、のちの今井祝雄が17歳で具体に参加したときと同様に、吉原治良が年齢を問わず自由な発想のもとに作品を創る作家を求めていたことを知ることができる。
ここでは、具体の会員となった吉原通雄の作品の歩みを振返ってみたい。具体の結成後の初めての展覧会は、1955年3月に開かれた第7回讀賣日本アンデパンダン展であった。具体のメンバーが出品する作品すべてに《具体》というタイトルをつけ、吉原通雄は3点を出品した。そのうちの1点(現在芦屋市立美術博物館所蔵)は、150号ほどの大きさの木枠に新聞紙を糊で張り合わせて支持体を作り、油彩をへらのようなもので置いていく作品だった。支持体を新聞紙で作る作品は、52年ころからの嶋本昭三の作品に見受けられ、伝授されたものと思われる。55年夏に開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」では、ジャンクと呼んでいいスクラップを作品化し、その秋に開かれた第1回具体展には、アンフォルメルな油彩画を出品した。しかし、吉原通雄が他の具体作家に刺激され独自の作品を生み出したのは、そのあとである。56年の2回目の野外展では、電球、水槽を地中に埋めた作品を、具体展では、手回し絵画やセロファン紙に描いた絵を投影する作品を発表している。このころから光、土に興味を示しそれらを素材とした作品が主流となっている。その後60年ころまでの出品作品は、コールタールに砂や石ころを混ぜた画面で、地面を壁に展示したように見え、それが吉原通雄の代表作となった。当時彼の住んでいた芦屋市内の道は、地道から急速にアスファルト舗装されていく時代だった。そんな時代を反映した作品のひとつと言えるのではないだろうか。一方舞台での展覧会では、無人称の白服に身を包んだ数人が舞台上でさまざまな音(ノイズ)を出す《音響演奏》や62年の舞台展「だいじょうぶ月は落ちない」は、吉原通雄が好んだロックンロールをタイトルとして、舞台上の10人が指や口などだけを小刻みに動かすパフォーマンスだったという。プライベートでは、友人とモダンジャズのバンドを組みドラムやギターを担当するなど、まさに1960年代ならではの流儀であった。具体時代の後半は、紙テープを画面いっぱいに詰め込んだ作品やそこから派生した絵画が生まれた。
吉原通雄は、大学卒業と同時に父の会社吉原製油に就職し、宣伝デザイン部門を担当した。会社ではとなりの席に、同じ具体の吉田稔郎がすわっていた。ともに吉原製油のパッケージや広告デザインを手がけた。仕事と制作の両輪を持ちながら発想を生み出すとともに具体でも会社でも常に父吉原治良の背中をみてきた。 他からは見えない具体の指導者の内面、具体各メンバーの突飛な発想の作品の善し悪しを一言で評価してきた鋭い眼など吉原治良を最もよく知り、理解したひとであった。そして、何よりも具体創世期にアトリエに持ち込まれてくる数々の作品は、吉原通雄を驚かせたとともに、彼自身がより深く具体と関わっていく場となった。
しかし、72年具体解散とともに吉原通雄は、わずかに毎年開催される芦屋市展に86年まで出品する程度で作品発表の機会がめっきり少なくなった。80年代以降は、具体回顧展の再制作が多くなっている。87年、53歳で吉原製油を早期退職し、再び創作活動への意欲を見せる。そして91年と94年にコンピューターを用いた原画によるアクリル絵の具の作品を発表した。時代は、具体を本格的に回顧する時期と重なり、アスファルトを使った旧作は兵庫県立美術館と東京都現代美術館が所蔵するわずか3点が残るのみで、吉原通雄自身にとっては複雑な心境であったことと思われる。吉原通雄は96年急逝するが、その後の整理で60年代後半の作品が数点発見され芦屋市立美術博物館に収蔵されることとなった。吉原通雄が今日評価されにくいことは、具体時代の作品が残っていないことにも由来する。もともと多作ではないが、現存する作品からは、描くということよりも素材と方法が重視される作家であったことには違いない。
(月刊ギャラリー6月号2014年に掲載)
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