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ー優しい天才ーアーティスト・嶋本昭三の人間としての魅力

具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第18回目は、具体美術協会設立の中心メンバーであり、2013年に85歳で逝去した嶋本昭三を取り上げる。人生最期にもパフォーマンスの打合せをするなど、アートに人生を捧げた嶋本昭三。家族やスタッフへのインタビューを通して、作家・嶋本昭三という人間を象る。


優しい天才アーティスト 人間・嶋本昭三の魅力。


今年の1月25日に急性心不全のため85歳で逝去した嶋本昭三は、その最期の日の午前中もパフォーマンスの打合せをしていたという。途絶えることなく国際的な発表活動を続けてきた嶋本だが、今も、イタリア・ミラノで回顧展(2014年1月まで)が行われている。「具体」の中ではもっとも活発なアーティストとして活動を続けてきた。

嶋本昭三のアトリエ、アートスペースは西宮市の甲子園口にある。現在もスタッフがさまざまな活動を続けている。今回はそこを訪ね、嶋本昭三の長男で音楽家(大阪芸術大学教授)の嶋本高之氏とひとみ夫人、元スタッフの金澄子さん(スペース・デザイナー)の話をうかがうことができた。また嶋本作品の海外への紹介に尽力するアンドレア・マルデガンにも茨城県守谷市で会うことができた。

昨年2012年の4月25日、軽井沢ニューアートミュージアムの開館記念で嶋本昭三のビン投げパフォーマンスが行われた。具体美術協会設立の中心メンバーである嶋本のパフォーマンスをつい昨年まで実際に見ることができた。結果的にこれが最後のパフォーマンスとなったが、しかし、嶋本もそのスタッフもまだまだ活動を続けていく計画を持っていたという。

「その日も(1月25日)、入院はしていましたが、朝もみんな先生に会いに行ってから、お昼にここ(アートスペース)に集まってミーティングをしていました。今度はどんなところでパフォーマンスができるかということですね。自宅に帰ってきて作品を創ることはできましたが、みんなと一緒にパフォーマンスをやった方が元気が出るのじゃないかと考えていたんです。そんな話をしていた後の、病院からの急な電話だったので、驚きました」

と、嶋本高之夫人の・ひとみさんはそう話す。

最期の日までパフォーマンスの展開を考えていたというこの事は、嶋本昭三の生き方そのものを象徴している。嶋本の長男として生まれ、現在はシマモト・ラボの代表も務めている嶋本高之氏に、父親像、人間像について聞いてみると、「 いわゆる一般的な父親像というものはほとんどないですね。一緒に遊んだという記憶もないですし。逆に、今、アーティストとしてはいろいろな部分で影響を受けています。ビジュアルと音楽という違いはありますが、アブストラクトだとかハプニングは、僕が音楽をやっている上で大事な要素の一つになっていると思います。しかし父親をアーティストだと認められるようになったのは、僕がニューヨークに行っていろいろなアーティストとコラボレーションしたり、画廊で演奏をしたりする機会があって、そういう経験をしたからです。30歳くらいになってからですかね。ニューヨークに行かなかったら分からなかったかもしれません。父は自分のやっていることに信念を持っている、自分の言葉というか、表現したいものを持っているのを感じました。私自身が父をアーティストとして認められるようになった後はよくコラボレーションで演奏をやりました。

アートもそうですし、音楽もその時代に認められるものがいいとされますね。だけど良いものと悪いものは紙一重じゃないですか。その紙一重のところでぎりぎり生きているわけで、強い信念がなければやっていけません。どんなアーティストも自分の弱いところを持っていますが、どこまで信念を貫けるかどうかが重要じゃないかと思います。その点、父は、自分の思っていることを絶対通すという凄く強い信念の人でした」

高之氏にとって父親像とは、嶋本昭三のアーティストとしての生き方に重なっていく。それほど、生活とアートが密接に繋がっていたということだろう。

30年前、嶋本昭三の仕事を手伝っていたという金澄子さんは、当時の嶋本の仕事ぶりについてこう話す。

「 起きた瞬間から寝るまで、365日アートのことしか考えていないようでした。仕事は休まないし、娯楽で映画に行こうとか、そういうことが一切ないんです。映画もアートに関して面白いものがあれば見に行くことはあっても、今、流行っているからという理由で娯楽として見に行くことはなかったですね。朝は毎日3時に起きました。そして6時までには、だいたい今日やるべきことが終わっているんです。それから散歩に行って朝食、それから今日は何しようかなという感じでした。とにかくやりたいことがいっぱいあって、時間が全然足らない。世界各国とメールアートもやっていて、来たものに全部返事しないと気が済まないですから」

朝の起床の早い生活は、当時から晩年までずっと続けられてきた。常に新しい表現を追い求め、多様な内容の作品を発表し続けてきたのは、こうした基本的な生活姿勢を維持することによって可能になったのだろう。

「 夜は寝るのが8時でしたからね。だからパーティーなどには一切行ってないですね。お酒も飲まなかったし、煙草も吸いませんでした。父にとっては、その生活リズムを崩してまで参加する、特別なものはなかったんじゃないですかね。外国に行った時も、夜は早く寝ていましたよ」(嶋本高之氏)

「 本当にいろいろなことができる人でした。ペンを持ってもすごい文章を書く。本の著作もありますが、やはり原稿は頭の冴えている朝のうちに書いていました。何をしても半端じゃない仕事をしていましたね。それが、ある時〈普通のお爺ちゃんじゃなくてごめんね〉と言われたことがあります。家族もみんな一線以上に近づかないというか、みんな同じ距離でした。初孫ができた時もそれは同じなんです。そういうことも含めて〈悪いと思ってるよ〉と言っていましたが、誰も普通のお爺ちゃまを望んでないから気にしないで、子供たちはこれがグランパだと思っているし、私も普通のお爺ちゃまになって欲しくないと言いました」(嶋本ひとみさん)

早朝から活動を始めるアーティストと生活圏を共にする家族やスタッフの理解も、嶋本昭三の活動を支えていたひとつだということが窺われる。

「 毎日が忙しかったのですが、それでも、人の面倒をすごく見る人でした。〈具体〉の設立時も奔走したと聞いていますが、きっと嶋本がいなかったら纏まっていなかったんじゃないかと想像してしまいますね。いつでも、アートスぺースには若い人が嶋本を慕って集まってきていました」と嶋本ひとみさんは言う。

嶋本昭三の人間的な優しさを感じとっていた人も多い。イタリア人のマルデガン・アンドレア氏もその一人だ。彼は、嶋本昭三の作品をイタリア等広く海外に紹介する仕事をしているが、嶋本との出会いが面白い。イタリアで医学博士を目指して病院でインターンをしていた彼は、医師たちの姿勢に疑問を感じていた。その日々のストレスを癒すためにベネチアに旅した彼は、ベネチア・ビエンナーレの「extra50」に参加した嶋本昭三の出品を手伝いにきたAUメンバーのスタッフに出会う。日本語の勉強を趣味でしていた彼は、そこで、実際に通じるかということを試したくなり、彼らに話しかけた。そうした経緯から詳細は省くが、彼が日本にやってくることになった。2003年の夏、その時、空港に迎えに行くはずだったスタッフが迎えに行けなくなり、その代わりに行ったのが、嶋本昭三その人だった。

「 空港では日本語がまだ不安です。誰かが迎えに行くから大丈夫だと知らせてくれましたが、その誰かが嶋本先生でした。だからビックリ。何にもできない、関係ない、夏休みにバカンスで軽い気持ちで来た外国人を、こんな風に歓迎するなんて驚きました。凄いと思った。普通の人にはとてもできない。それで僕の中に大きな刺激が起こった」

そのアンドレア氏は、アートに興味があって日本に来たわけではない。むしろ逆で、医学は必要でもアートは何の役にも立たないものだという考え方を持っていた。まるで正反対の人間が、なぜか嶋本昭三の活動を支えるようになった。「 もともと芸術はいらない、医学は一番必要だと思っていましたが、医者は身体をいくらか治せるんでしょうけれど、心をなくしたらどうですか。どっちが大事なのといえば、両方です。ですから嶋本先生も医者になれる一面があったと思う。彼の優しさ、子供の心と言えるかもしれないけど70歳でまだその心を持っている。やりたいことを思い切ってやる、まわりのことは深く計算しない。これは医者が忘れていることだと思いました。自分の専門には優れているんですが、外へ出たら空っぽの感じ。どっちのために働きたいかと考えて、嶋本先生のような心を持った人のために力を尽くしたいと思ったわけです」

その決断も、日本である病院の面接試験に通り、研究者として勤務が決まった後で行われた。人生の分岐点ともいえるこの決断に、嶋本芸術の力が大きく作用したことは言うまでもない。一人の医学研究者をアート活動に専従させる魅力を嶋本作品は持っているということだ。

「 今はこの言葉が簡単に使われすぎますが、嶋本先生は本当の天才です」

とアンドレアは言う。

「 なぜこれほどの先生を、僕よりほかの人が先に紹介をしていなかったか不思議でした。先生が76歳になってから、私は仕事を始めました。嶋本先生も苦しかったんですね、みんな理解してくれなくて。日本人は美術に対して自分で決めない。他の人が良いというと、なんとなく認める。ピカソと聞けばみんな頷く。逆にイタリア、ヨーロッパでは自分の眼で見て、自分で決める。だから、嶋本先生はイタリアでは芸術の神様なんですね」

日本では海外で評価が高まる度に、再評価という動きになる。それも、作家それぞれの個の活動として掘り下げていくより「具体」などグループのメンバーとしての捉えられ方が強くなる。

広範囲な活動を晩年まで展開してきた嶋本昭三を、「具体」を超えて理解してもらいたいというアンドレアの思いがある。シマモト・ラボでも、同じような思いを感じた。そして日本での展覧会が少ないことが話題になった。膨大な仕事を残した嶋本の、その大きな姿がこれから徐々に詳らかになっていくような展開を見たいものだ。

(月刊ギャラリー12月号2013年に掲載)

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