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自由に実践し表現するアーティスト“山崎つる子”とは
GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1
06/35
山崎つる子
具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第6回目では、具体美術協会のアーティストで具体解散後も意欲的に制作に励んだ“山崎つる子”にフォーカスを当てる。具体美術協会の創立会員として、吉原治良、嶋本昭三、上前智祐と共に名を連ねた山崎つる子の創作の歴史を、キュレーターであり美術評論家の加藤義夫の目を通して振り返る。
88 歳の現在も、新作の制作に挑むアーティスト山崎つる子、芦屋市のアトリエを訪ねて。
加藤義夫
キュレーター/美術評論
明治末期から大正、昭和の戦前まで大阪の富豪や文化人が郊外住宅地として求めたのが六甲山麓の風景である。阪神、阪急という二つの私鉄と国鉄が大阪と神戸間を走り西宮、芦屋、六甲、御影といった沿線の宅地開発が発達していった。商業都市の大阪と貿易都市の神戸のはざまの阪神間には、かつて阪神間モダニズムというものがあった。
その阪神間には著名な画家がアトリエをかまえた。例えば、日本画の村上華岳(1888~1939)、洋画家の小出楢重(1887~1931)、小磯良平(1903~1988)、長谷川三郎(1903~1957)、吉原治良(1903~1972)といった画家たちは、日本近現代美術史に名を連ねる巨匠たちだ。
幼少の頃から阪神間モダニズムという環境で育ったのが、山崎つる子(兵庫県芦屋市1925年生まれ)だ。生まれも育ちも芦屋、そして現在も芦屋在住である。戦後すぐの昭和21年(1946)、吉原治良による美術講座を聴講し、その人間性に強く魅了されて翌年、友人と共にアトリエを訪ね吉原に師事した。
その頃の山崎はまだ小林聖心女子学院(おばやしせいしんじょしがくいん)の女学生で、芸術への熱意と鋭い感性を持つ早熟な少女だったといえる。
その後、54年の具体美術協会(具体)が結成され、創立会員として吉原治良、嶋本昭三、上前智祐と共に山崎つる子も名を連ねることとなる。
筆者が山崎つる子にはじめて出会ったのは、1986年夏の頃だ。その場所は、元・具体の嶋本昭三のアトリエ・作品倉庫、ギャラリー空間を持つ兵庫県西宮市甲子園口の「アートスペース」だった。
72年の具体解散後の75年に芸術家集団AU が、吉村益信の呼びかけで結成され、翌年に嶋本が事務局長をまかされ、84年に甲子園口に「アートスペース」の館が開館した。そこは国内外の美術関係者が集まり交流の場でもあった。
そこで私は元・具体の白髪一雄や村上三郎、そして鷲見康夫と出会った。またメールアートのカベリーニや現代音楽家の小杉武久、サウンド・アーティストの藤本由紀夫とも巡り会った。
山崎つる子の第一印象は、ファッションデザイナーのような雰囲気と装い、昭和のモダンガールという感じで、みんなは「おつるさん」という名で呼んでいた。その化粧法や服装はとても奇抜で頭のてっぺんからつま先まで前衛的。関西屈指の超高級住宅街、芦屋のお嬢様といった雰囲気を醸し出しながらもアヴァンギャルド感溢れたスタイルを持ち合わせていたスタイリッシュな人だった。
さて、欧米で再評価が高まる戦後の日本前衛美術「具体」の回顧展がニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館で2013年2月から5月にかけて開かれた。酷評することで名高いニューヨーク・タイムズの評価も高く、25万762人という観客動員数を記録した。これは同館の企画展の中でも驚異的な観客動員数を誇る。その展覧会図録の装丁は、ソフトビニールを使った真っ赤なデザイン。「具体展」担当キュレーターのひとりアレキサンダー・モンローによれば、山崎つる子の作品に多用されていた赤色からヒントを得て図録のブックデザインに活かしたと聞いた。
55年7月芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」において出品した、山崎つる子の赤い硬質ビニールを蚊帳状に張って宙づりにした「蚊帳状立体作品」は、夜間には内部で電燈が点灯し、周囲を赤く照らし染めるといったものだ。他に赤紫に染められたブリキ板を数十枚つなげカーテンのように吊るし、風に揺れ動く大作「三面鏡ではない」や、この年の10月に東京・小原会館で開催された「第1回具体美術展」に出品された、数十個の赤いブリキ缶を床にランダムに置いた作品「ブリキ缶」など、赤色が基調色になっている。山崎つる子の鮮烈な赤のイメージは、キュレーターのアレキサンダー・モンローを魅了し具体を象徴する色となったのだ。
また一方、「第1回具体美術展」に出品された大きなトタン板に約150個の円い穴を打ち抜き、裏側から鏡をはめ込んだ作品は、金属や鏡という素材が光を反射し光そのものを感じさせる。前述のブリキ板や赤いブリキ缶も同様に、光の効果を意識したものだと考えられる。そのヒントは、自動車のヘッドライトがブリキの看板や缶などに反射し、暗闇に光るさまに山崎が感動したことによるらしい。戦後間もない頃の闇の夜の出来事だ。光と色の不思議な存在に好奇心と興味を持った彼女は、直ちに光に反応し、視覚化を試み作品とした。感じ取ったものを具体的にすぐに視覚化するという能力、たぐいまれな才能を感じさせはしないか。
具体解散以後、70年代半ばに制作され発表された作品は、シュールなポップ・アート風の具象絵画だった。パチンコ台、スーパーボールの景品用パッケージ、花火の詰め合わせなどをモチーフにした作品は、一過性のギャンブル性を導き出し、少しいけないことをしているというワクワク感が人々を興奮させた。
70年代末から80年代初頭にかけては、イヌ、ブタ、ゴリラ、ライオンといったモチーフが現れる。国内においてこの時代は、抽象絵画こそが前衛的というかモダニズム絵画そのものであり、具象絵画は公募団体展の時代遅れの産物で、大衆に迎合した表現であると多くの美術関係者が考えていたと思われる。そんな頃に具象絵画を描く山崎つる子の勇気は堂々たるものだ。批判を覚悟してのことか、いや我関せずで、好きなこと、やりたい事だけを自由に実践し表現するという潔さは、見ていて気持ちの良いものだ。ここに彼女の揺るぎない自己への自信が見え隠れする。
80年代初頭には、イタリアのトランスアヴァンギャルドやアメリカのニューペインティングといった同時代の具象的表現主義絵画が盛んになる。彼女の時代を見据えた先見性は、ここでも遺憾なく発揮されている。
近作を見るとブリキ板に染料ラッカーを用いた透明度の高い鮮やかな色彩、というか、色そのものが純粋な光に還元され、表現主義的な抽象絵画を生み出している。それらの作品は、少女時代に吉原治良と出会った頃のみずみずしい感性がよみがえったような表現だ。
年齢を重ねても少女のようなキラキラと光輝く感性と鮮度の高い精神性を保ち、好奇心に満ち満ちた「超少女」が、山崎つる子「おつるさん」その人なのだろう。
(月刊ギャラリー11月号2013年に掲載)
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