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美術史家・本江邦夫が語る|【具体美術協会】とは何か?

具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。今回は美術史家であり多摩美術大学教授を務めた本江邦夫氏による見解を紹介。<具体>という美術協会が歩んできた歴史と本江氏による<具体>の魅力が綴られている。

具体に関する覚書

本江邦夫(多摩美術大学教授)

昨年(2013)のグッゲンハイム美術館の大規模な回顧展『具体-壮麗なる遊戯場』の効果もあり、<具体>(具体美術協会:1954-72)が欧米のそれを中心とする戦後美術史の文脈において同時代の同種の動き、すなわちアンフォルメルや抽象表現主義と一線を劃した、独自の評価と位置づけを獲得しつつあることは、まことに喜ばしいことだと私も思う。しかし、喜んでばかりもいられないのは、こうした歴史的な認知にはつねに通説、つまりまったくの嘘ではないが、そのときどきの思惑もあって歪曲ないし単純化された「語り」が付きまとうことである。

先日もこんなことがあった。イェール大学出版局の叢書<アメリカのイコンたち>の一冊、イヴリン・トイントン著『ジャクソン・ポロック』を読んでいたら、こう書いてあるではないか。「早くも1950 年代に具体の芸術家たちは、描いている最中のポロックの写真と映画に想を得たボディー・アート的なパフォーマンスに取り組みつつあった」 1) と。ポロックの作品《ナンバー 11, 1949》が1951 年の第3回読売アンデパンダンに出品され『みづゑ』(4月号)の表紙を飾り、後に<具体>の頭領、吉原治良がその「具体美術宣言」(『藝術新潮』1956 年12 月号)において「現代の美術ではポロック、マチュウ等の作品に敬意を払う」と明言したのは事実だが、これをもってしてポロックの圧倒的な影響のようなことを言われても困る(一般向けに書かれた、基本的には良書だけに弊害も大きい)。そもそもここで言う「敬意」とは実のところ、いわば同好の士に対するそれであり、アンフォルメル運動の牽引者タピエが1957 年に来日して、この極東の島国にすでに、それも真正なアンフォルメルがあったことに驚いたのと事情はさして変わらない。

未曾有の大戦後の、それまでの美的欠落ないし空白を埋めようとする全世界的な衝動を思えば、美術的な事象にも「平行進化」のようなものがあったことはむしろ自然であろう。しかし、覇権主義に毒された現代美術界ではなかなかそうは考えない。たとえば、1958 年にニューヨークのマーサ・ジャクソン画廊で初めて<具体>の紹介がなされたとき、グリーンバーグの高弟ともいうべきウィリアム・ルービンは、そこに反映された戦後の(コミュニズムを回避した)日本社会の開放感に言及しつつ、その「ダダ的な珍奇さと抽象表現主義の亜流としか言いようのない絵画 2) について難色を示したが、いくら事情に疎いとはいえ、これではほとんど言いがかりである。

そもそも<具体>とは何か? 紙を破る(村上三郎)、絵具を足でこねる(白髪一雄)、絵具の瓶を投げつける(嶋本昭三)、電飾の服を着る(田中敦子)といった奇矯な行為、パフォーマンスを伴った、戦後の、全体主義的な戦前・戦中とは打って変わった、自由な社会を反映した屈託のない芸術運動とするのは、とりわけ欧米において定着しつつある見方だが、これにしてもすぐさま是認するわけにはいかないだろう。<具体>の今日をあらしめているのは、何といっても「絵画」の存在が大きいからである。ちなみに権威あるオックスフォードの美術辞典は<具体>の特色としてパフォーマンスと「主として抽象表現主義風の抽象絵画」 を挙げているが、後者で抽象表現主義を引き合いに出しているのはけっして適切とは思えない。なぜなら、みずからの身体性に即した単調な作業を緻密に積み上げていく上前智祐を唯一の例外として、<具体>の絵の本領は「絵具という媒体と、描くという行為にかんする実践」 3) に根ざしたある種の瞬発力によって、一気に完成へと拉致されるところにあり、多かれ少なかれ「構築」の過程を経る抽象表現主義絵画とはまさにこの点で一線を劃すからである。 色とかたちが自律的に整備されていくモダニズムに対して、吉原治良が「具体美術宣言」において「もっと激しい積極的な仕事をやりたい。大切なのは結果ではなく、物質のなかに自分の軌跡を残すような行動であると考える」と言い切ったのは事実である。ここでもっとも注目すべきは、吉原の内なるアニミズム的な物質感であり、それは同宣言の次の箇所に遺憾なく発揮されている。

具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。
具体美術は物質を偽らない。

具体美術に於いては人間精神と物質が対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のまゝでその特質を露呈したとき物語をはじめ、絶叫さえする。物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ。

精神と物質、物質と精神は互いに等価なものとして対立的に共存している。1955 年の第1回具体美術展(東京青山・小原会館)において約1トンの壁土と這いつくばって戯れ、格闘する白髪一雄と、床に敷かれたキャンバスを見下ろしつつ、実は精緻にドリッピングしていくポロックを、だから同一の次元で考えるわけにはいかない。後者には明らかに、物質に対する精神の優位があるからだ。そして不思議なのは―これは私だけのことかも知れないが―記録映画でそうした白髪の姿を見ていると、いつのまにか泥を絵具と錯覚している自分自身に気づくことである。さらに不思議なのは、全身泥まみれの白髪の写真の横に、小さな絵具の塊をひたすら点描していく上前智祐の同時期の作品を置いてみると、そこに何の違和感も生じないことである。 4) ここには白髪がやがて足で描き、上前が固有のオブジェを縫い上げていくことの、つまり物質、媒体(絵具)、身体、さらには精神の交流ないし連関としか言いようのない美的にして具体的な事態の始まりがあると言えるだろう。

ところで、〈具体〉とは何か? 各人各様の見方はあるだろうが、かつて『文学とは何か?』でサルトルが提示した「couleur-objet」(オブジェとしての色彩)、つまり色彩の言語性の全否定に依拠しつつ、たとえば木村重信は言う。「もはや抽象とか具象とかいうスタイルには拘泥せず、さまざまのマティエールをオートマティックに画面に重ねて、内部の観念へではなく、外部の物質への通路を求めつつ、しかも自己をもなまの生命の流れと化そうとする」 5) ―それが〈具体〉だと。〈具体〉のまさに活力を体現した、傾聴すべき見解である。私としてはこれを尊重しつつも、元祖〈具体〉と言えないこともない、テオ・ファン・ドースブルフ(1883-1931)が彼の言う「具体的芸術」(L’Art concret;Concrete Art) について「それは〈自然〉があたえるいかなる形態も、感覚性も感傷性も受容してはならない」 6) ( 1930 年)と決めつけたことを重視したい。ここには吉原治良の口癖「これまでになかった作品をつくれ」の、より厳格な姿勢を見る思いがするからだ。

自然との親近性を全否定するとは、もうひとつの自然を作り出すようなものだ。たとえばハンス・アルプ(1866-1966)が彼独自の有機的な形態について抽象的と呼ばれるのを嫌い、木にすでに木のかたちがあるのと同じ意味で、それは具体的であると主張したのもこの文脈で理解すべきことだ。また、やや意外なことだが、あの画期的なエッセー「前衛とキッチュ」(1939 年)において、「自然がそれ自身で正当なものであり、風景画ではなく、まさに風景そのものが美的に正当なものであるのと同じ意味で、それ自身にあたえられた条件のみでみずからを正当化するもの」 7) に―歴史のこの時点では―ほとんど夢想的に言及するグリーンバーグにも「具体的な」感覚が潜在していたことを忘れるべきではない。問題は、わが国の〈具体〉がこうした、芸術家を事実上の神とみなす「もうひとつの自然」の語りに関与するものかどうかということだ。この点について、いまの私に即答できるものは何もない。ただしアニミズムの問題を明確にしないかぎり、こうした議論は不毛であろうとは感じている。

ドースブルフやグリーンバーグとの関連に私がこだわるのは、実は〈具体〉にも「第二の自然」的なもの、具体的芸術が見え隠れするからである。白髪、上前は当然として、けっして美的とはいえないありふれた素材から、いきなり異物を現出せしめるかのような前川強、自己言及的な独自の(非)記号に終始することで現実を作り変える向井修二、家の仕事の関係で見慣れていた計器類の円形を究極の「円」としてまさに具体化した名坂有子。特筆すべきは、一連のベルを会場である間隔で次々と鳴らしていく「作品」を、なんと「絵画」と見立てた田中敦子の、現実に対する強烈で、まさに具体的な感覚である。このとき音は色素のごときものであり、空間は具体的には奥行きをもった画面なのだ。さらには菅野聖子のように幾何学的なモチーフを反復する、西欧的な意味で正真正銘の「具体的な」画家も、実は〈具体〉に属していたのだ。

いま、〈具体〉を前にしてあらためて気づかされるのは、その奥深さである。それは綺羅星が主体の星座よりも、むしろ輝く星雲を連想させる。そこから何が出てくるか分からない期待感が今もなお失われてはいないのだ。それにしても、と私は思うのだ。平井章一の言う、日本が「戦争で失ってしまった近代的自我を取り戻す場」 8) としての〈具体〉に解き放たれた、それぞれに個性的な者たちは毎日が何と楽しかったろうと。

注釈
1) E. Toynton, Jackson Pollock, Yale UP, 2012, p.77
2) W. Rubin, “The New York season begins,” Art International 2 (December 1958), p.27, quoted by M. Tiampe, “Cultural Mercantilism: the Gutai Group,” in J. Harris (ed.), Globalism and Contemporary Art, John Wiley
  & Sons, 2011, p.215
3) J. Kee, “Situationg a Singular Kind of ‘Action’: Early Gutai Painting, 1954-57,” Oxford Art Journal, nol.26 no.2 (2003), p.158
4) 『月刊美術』(2013 年8月-<具体>特集号)p.32
5) 木村重信「戦後美術史における「具体」の先駆的意義」
  平井章一『「具体」ってなんだ?』(美術出版社 2004)p.10
6) Dictionnaire de l’art moderne et contemporain, Hazan, 2002, p.208
7) Harrison and Wood, Art in Theory 1900-1990, Blackwell, p.531
8) 『月刊美術』(前掲)p.35

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※本記事に掲載されている情報は発行当時のものです。現在の状況とは異なる場合があります。

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