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児童詩誌『きりん』編集者の浮田要三が「具体」に加入するまで
GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1
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具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第33回目は児童詩誌『きりん』の編集を14年間務めながら、作家として具体で作品を発表していた浮田要三を取り上げる。『きりん』での繋がりで吉原治良と関わりをもつようになった経緯や、20年ものあいだ制作活動を中止していた理由を、浮田綾子夫人が語ってくれた。
編集者として吉原治良との出会いから「具体」へ
新しい時代の美術の在り方を模索する中で「具体」に辿りつき、そこで美術中心の生き方をしてきた「具体」の作家がほとんどだった中で、浮田要三は、その出会いから他の作家とは違っていた。
兵役を終えて大阪に戻った浮田要三は、小さな出版社・尾崎書房に入ることになった。1948年に創刊された童詩雑誌『きりん』の企画が進んでいた時だった。大阪の市街地にはまだ焼け野原が広がっていた時代だが、純粋な子供の心は変わっていない、その詩を集めて「世界で一番美しい雑誌をつくろう」と毎日新聞学芸部副部長だった井上靖(後の小説家)が発案し、詩人の竹中郁などが賛同してスタートしたという。
浮田要三は、その第一回の編集会から仕事に加わり『きりん』の編集から販売までに関わってきた。純粋な子供の詩や絵を扱う雑誌の仕事は、経済的にも困難な仕事であることは、今も昔も変わらない。それを実に14年間、中心的な存在として続けてきた。表紙は創刊号に画家の脇田和が表紙絵を描き、第3号と第4号に「具体」のリーダー吉原治良が描いた。編集者として表紙を担当していた浮田要三が、そこで吉原治良と出会うことになる。後に表紙の作品は画家から子供の絵を中心に使うようになったが、絵の選択眼には浮田は自信があったようだ。吉原治良からも「君が選ぶものはみんな面白いやないか。それだけわかっているなら自分でも作品を創ったらどうや」と言われたのが、きっかけで31歳から作品を制作し具体展に出品することになった。
「最初はべニア板2枚合わせた大きな、アスファルトの道路が剥ぎ取られたような作品を創っていましたね」と、浮田綾子夫人は同時を回想する。
綾子さんとの結婚も『きりん』との関係がそのきっかけだった。発行趣旨に賛同した京都の富有小学校が毎月大量に購入していた。そこで綾子さんが教諭をしていたことから浮田要三と出会い、ゴールインした。家庭も『きりん』が縁となっていた。
「ラブレターをいっぱいもらいました。私の一番親しい先生に渡していくんです。それが甘い言葉がほとんどないんです。文章が全体的に哲学的なんです。変わってましたね。でも自分の信念というのを強く持っていましたね。私が結婚するときは文章が上手な人だとは思っていました。まさか、作品を作ることになるとは思いませんでした」
「具体」に出品する以前から、家庭を持ち、『きりん』と「具体」に打ち込んだ。
「朝の3時ごろに起きて、5時まで絵の作品とか、自分のことをやっていました」
こうして10年間、具体展に出品するが、NHKのラジオ番組「ラジオ深夜便心の時代」に出演した浮田要三は作品制作について話していた。
〈…。『きりん』では子どもの持っている非常に純粋なものが絵として作品になり、表紙になる。じゃあ自分もそれと同じコンセプトで作品を創ろうということですね。自分の作品がいいのか悪いのか分からず、無我夢中でした。ただそのときやりたいと思ったことを一生懸命やっていただけのことなんです。結果的にそれがよかったですがね。それから後が、吉原先生から褒めて頂いたから、もっといいものを作ろうと思った瞬間だめになりましたね。全然いいものができない。それで20年一服しました。…〉
自分が作品に納得できなくなって発表を〈一服しました〉とあるが、実に20年も沈黙を守った。
「父は、展覧会に合わせるとか、先生に合わせるとかじゃなくて、自分がやろうと思ったことをやるだけでした。何のためにやるとかじゃなくて、自分の心に従うという人ですね。私には小さい時から勉強に限らず、何でもいいからひとつ自分の決めたことだけは一生懸命やりなさいと。通知表とか試験とか、絶対見なかったです」
一人娘の小﨑唯さんは、こう語る。
「みなさんに穏やかで楽しい父でしょうと言われますけど、穏やかそうに見せても癇癪持ちで、怒ったらもの凄く怖いですよ。お店屋さんでもなんでも、納得のいかないことがあったらパッと言うんです。だから、小さい時は、怖いなと言う感じはありましたね。高校生、大学くらいから、対等というか気楽にしゃべるようになりましたが」
一徹に自分の心に正直に生きる浮田、これは『きりん』の刊行方針と重なるところがある。10年続けた「具体」の発表をぴったりと止め、20年後に「具体」の作家で、親しくしていた嶋本昭三の誘いでドイツのグループ展から発表を再開する。やはりラジオで語ったところによると、
〈展覧会のためにドイツの貧乏絵描きと2週間合宿しました。そこで日常生活のどんなつまらない事にも彼らは気持ちを込めた真摯な態度で生活して、それが作品になっていることを知りました。日本人と、それが違う。ですから生活の内容から変えていかなくてはならないと思いました。生き方そのものが作品に反映される。絵を描くということは改まったものでもなんでもない、生き方そのものを忠実に素直にだせばそれでいいということがわかりましてね〉
60歳にして活動を再開した浮田は、アトリエUKITAを開き作品を発表すると同時に、多くの人たちに美術を通して人間の生き方を語った。幼稚園などでも絵画の指導もしていた。こうして作品と同時に幅広い人たちに、浮田要三の生き方、哲学が伝わっている。
それは、かつて『きりん』を発行継続してきた、浮田の、ライフワークから導かれてきた心を大切にする生き方に、すべてが繋がっている。
(月刊ギャラリー5月号2014年に掲載)
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