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「世界ブランド」としてのフジタ─〝和魂洋才〟を貫く

評価され続けているアジアのアート
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Whitestone Gallery Hong Kong / H Queen’s

国際的に評価されているアーティストやアジアのアートマーケットに関しての書籍『今、評価され続けているアジアのアート』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第2回目は、フランス・パリで大絶賛され、ピカソやモディリアーニなど名だたるアーティストと交流があった藤田嗣治をご紹介。広島県立美術館の館長である千足伸行がヨーロッパでの藤田の活躍とその軌跡を考察する。

「世界ブランド」としてのフジタ─〝和魂洋才〟を貫く

千足伸行
美術評論家 広島県立美術館館長

明治という時代(一八六八-一九一二)は西洋美術にとっても激動の時代であった。印象派が登場し、新印象派(点描派)、ポスト印象派がこれを新たな方向に展開し、世紀末の象徴派、ナビ派、アール・ヌーヴォーを経て二十世紀初頭のフォーヴィスム、キュビスム、表現主義などのアヴァンギャルドが嵐のように吹きあれたのがこの時代であった。

芸術の都・パリを拠点に、時流の前衛,抽象とは距離をおいた独自の具象を追求

明治の西洋崇拝、欧化思想の波に乗り、黒田清輝をはじめとする日本の画家たちが次々に渡欧し、油彩の技術を習得し、「日本画」に対する「洋画」という新しいジャンルを確立する一方、江戸末期から明治にかけての「開国」で各国との国交が開け、海を渡った日本の美術品が印象派をはじめとするヨーロッパの画家たちを魅了し、「日本に学べ」、すなわちジャポニスムが各国を席巻したことは周知の通りである。

フジタがパリに渡り、モンパルナスのオデッサ・ホテルに投宿したのが、明治が幕を下ろした直後の一九一三年(大正二年)であった。二十七歳のフジタにすれば「留学」、「修業」というより、華の都に「乗り込んだ」の思いであったかと思われる。フジタが一九〇五年のサロン・ドートンヌで頭角を現したフォーヴィスム、あるいは一九〇七年頃に始まるキュビスムの亜流に堕さなかったのも、彼の内部にすでに「フジタ」が確立されていればこそであった。以後、フジタの画風に多かれ少なかれの変化はあるにしても、基本的には時の前衛、抽象とは距離を置いた、独自の「あか抜けた」具象を通したと言えよう。

大戦後の一九一九年─サロン・ドートンヌ出品で一躍頭角を表わす

一九二〇年代に批評家のアンドレ・ワルノーが言い出したエコール・ド・パリ(パリ派)の定義はいまだに曖昧なところがあるが、(有名どころだけを挙げれば)モディリアニ(イタリア)、スーチン(リトアニア)、パスキン(ブルガリア)、キスリング(ポーランド)、シャガール(ロシア)、それにフジタなどがその中核を占めていることに異論はないはずである。彼らに共通するのは「エコール」(流派)といいながら、様式的な共通点がなく、それぞれが思い思いの、ただし具象という意味では共通する看板を出していたことである。フジタと同様、彼らはいわゆる前衛とはほとんど接点がなく、歴史的な視点からすれば傍流であったこと、フジタ、シャガールなどの一部の作品を除けば、「エコール・ド・パリ」といいながら、皮肉にもセーヌ川、エッフェル塔などのパリ風景、あるいはカフェのようなパリ風俗をほとんど描いてないこと、それと、フジタを例外として(上に挙げた限りでは)すべてユダヤ系であり、国籍もフランス人でないことである。したがって、エコール・ド・パリは絵画における「外人部隊」、「多国籍軍」と言ってもよく、その中にあってフジタは唯一の東洋人であり、その派手なファッションやロイド眼鏡、オカッパ頭などもあり、(同じくオカッパ頭だった)キスリングとともに、戦後の「狂乱の時代」のモンパルナス有数の人気者であった。

画家としてのフジタは大戦終結の翌年の一九一九年のサロン・ドートンヌに出品した作品六点がすべて入選という快挙を成し遂げ、このサロンの東洋人としてはただ一人の審査員にも選ばれた。

一九二二年のサロン・ドートンヌに出品された《トワル・ド・ジュイに囲まれて横たわる裸婦》(パリ市立美術館)は大評判となり、フジタによると、「翌日のすべての新聞がこの絵を記事にした。昼には大臣から祝いの言葉があり、夜には有力な画商がこれを八〇〇〇フランで買った」。

八〇〇〇フランという数字は「新人」としてはおそらくかなりの数字であり、二年後の《ユキ(雪)の女王ユキ》(彼の妻ユキことフェルナンド・ヴァレーがモデル、ジュネーヴ、プチ・パレ美術館)も評判となり、この頃からフジタの人気と名声は一気に高まった。フジタならではの「乳白色の下地」と、日本伝来の墨、それと面相筆を用いての繊細なデッサンによる裸婦や肖像、静物などはいわば「フジタ・ブランド」として確立された。

世界に通用する和魂洋才のスーパースター

世界に通用する日本が生んだ美術界のスーパースターと言えばホクサイ、ヒロシゲ、ウタマロ、あるいは宗達、光琳など、つまり明治以前の日本のオールドマスターであることは今も昔も変らない。草間彌生、村上隆、あるいは「具体」のようなコンテンポラリーは別として、明治以降の日本のアーティストの国際的な評価を測るうえでひとつの指標となるのが、欧米の美術事典、それも一般向けの美術事典に掲載されているか否か、である。英語による、言い換えれば世界中で最も広く流布し、内容的にも定評あるOxford Dictionary of Art and Artists(初版一九九八年)にはフジタの名は当然のように掲載され、近年、再評価のめざましい「具体」のリーダーで、一時、フジタに師事したことのある吉原治良の名も見える。アメリカのエール大学から出たやはり一般向けの Yale Dictionary of Art and Artistsにもフジタに加え、吉原治良、それと、アメリカで活躍したことを加味してか、国吉康雄も掲載されている(「具体」はなし。国吉は「オックスフォード二十世紀美術事典」には採用されている)。

いずれにしても、明治から現在にいたるまで、日本というローカルな枠の中での「巨匠」ではなく、国際的に通用する「世界ブランド」としてのアーティストは決して多いとは言えない。その中でフジタは特例的な位置を占めており、当時も今も「世界のフジタ」の名に恥じない存在感を示していると言えよう。

ここで参考までに挙げたこれらの事典に共通するのは、フジタをJapanese-French Painterと紹介していることである。これは「日本で生まれ、フランスで育った画家」とも、「和魂洋才の画家」とも言い換えられよう。「和魂洋才」とはヘタをすれば折衷主義に陥りかねないが、明治以後の画家としてはフジタが今なお(近年の具体とともに)国際的に極めて高い評価を得ているのも、生前からの名声と人気に驕ることなく、才能に溺れることなく、例えば裸婦という日本の伝統にはないジャンルを、フランスに行くことによって一層とぎすまされた日本的な感性で包み込んだ結果であろう。

千足伸行(せんぞく のぶゆき)

東京都生まれ。一九六四年東京大学文学部卒業後、TBSを経て、国立西洋美術館に勤務。一九七〇年西ドイツ政府給付留学生としてミュンヘン大学に留学。一九七二年国立西洋美術館に復職。成城大学名誉教授。美術評論家。広島県立美術館館長。主なる著書に「クリムト作品集」「幻想版画ゴヤからルドンまでの奇怪コレクション」「フェルメール原寸美術館」ほか。

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